2020-01-01から1年間の記事一覧

その109

物質的であるとは何か。存在はするが物質的ではないこととは、愛や勇気などの観念だと言えるが、愛や勇気が物質的ではないと言い切れるか。誰かを愛している人は愛を物質的な次元で表現しているのではないか。愛されたとき、物質的な愛の恩恵を受けたのでは…

その108

感覚を物質的に捉えることは可能なのか。おおよその感覚なら実在しそうだが、厳密に感覚を把握することはできるのか。存在と機能の相互関係から浮かび上がる物質的な実在がなにかしらあるのか。感覚的把握により生じる物質があるならどこにあるか。存在する…

その107

知っているか、知っていないかに着目したとき、知っていることは知っていて、知らないことは知らない。知らないからといって関係ないことはないかもしれないが、知らなくてさらに関係のないこともあるのではないか。知っていることばかりと関わっているので…

その106

認識としての関係性は実在する。個々の存在がいかに関わり合っているかについて私たちは知ろうとする。知ろうとすることで生じる関係性は、存在そのものはその関係性を超えた実質の可能性を孕んでいる。私たちの認識する関係性以上の実質とは、存在のありの…

その105

主体としての個は人間以外にも実在し、個の実在が主体を意味するとしたとき、主体の実在はその外部との関係性を実在させる縁となる。関係性があると考えることは、なんらかの主体がまず実在しないといけない。関係性だけがあるのではない。それぞれの場を主…

その104

在るとは、存在することで、存在しないことではない。何かが在れば、それを認識する主体がなくても、在るものはある。私たちの存在は確かに認識主体としての実在であり、自ら以外の実在を存在すると認めることができる。遠くに星があることを確かに知ってい…

その103

いっしゅんのうちにすべてがあると措定したとき、そのうちなる関連性とはいかにあるか。関係性の連鎖がいっしゅんのうちにすべてを包含することはない。関係性の連鎖とは運動であり、いっしゅんといった時間のなかで、その蠢きがいかにある。一個のりんごを…

その102

現実とはフィシスであり、私たちの預かり知るところではない。個別の現象なら知り得ることがある。私たちが実存的に認識する何もは存在として確と実在し、ありのままの状況のいったんであると考えられる。りんご一個が実在するとき、物質的な次元でそのフィ…

その101

正しいことのみのが認識されるのではない。現実において誤った認識も私たちの実存において実在することがフィシスに含まれる。私たちが何を思ってもそれはフィシスである。誤っているか正しいかはフィシスにとっては関係がない。在るものはある。私たちが何…

その100

認識界における認識は私たちの精神を介した自然的な実在であるフュシスだ。認識が存在の素性を完全に捉えていなくても、私たちを介在した認識界が実在することはこの存在の広がりにおける自然発生的な事実である。私たちを介在にして起こることはそのすべて…

その99

私たちは実存的に認識界にいながらも実質上の存在の基盤のうえにある。存在の基盤があることで認識界がある。その逆はない。存在が認識界を生む。認識界に対して、非認識界がある。認識されてないが、確かに存在することがある。在るものはあるだけで、何か…

その98

総合を認識しようとするとき、総合の存在が問われるが、認識が総合的にできあがった感があっても、そう感じられたのみで、実際上、ほんとうに認識が総合そのままに出来上がったのか。認識とは設けられた範疇ではないか。認識とはほんらい、対象それ自体であ…

その97

一個のりんごをある瞬間に見たとき、その全体は見えない。私たちではなく、機械などの装置でも、それは私たちと同じ主となる状況から脱することはできず、一個のりんごの全体はいかなる主体からも見出すことはできない。仮に、一個のりんごを止めたとしても…

その96

純粋に客観的に捉えようとするとき、捉える対象はそのものでしかない。捉える行為以前に実質がある。最も客観的なのはそのもの自体であり、対象を捉える行為は主観をはらむ。対象がいかにあるか、それを知らないから客観的に捉えるが、何かが主となることで…

その95

存在の流れのなかに場があることは何か。流れて動くなかに場を措定して認識することは可能なのか。措定された場はそれ以上の実在である可能性を孕む。措定された場とは私たちの認識の主観性により構築された領域であり、物理的に定まった領域ではないのでは…

その94

ある場を措定したうえで、その性質を考える。存在する何もがその遡上にあげられ、考慮されていい。りんごが存在する場にあるものはりんごだけではない。りんごでない何かがりんごの内部にある。場とは運動であるのだから、一概にそれ自体として決意はしない…

その93

ゼロとは、まったくないを意味し、その存在がどこにも見受けられないことを、存在論においては言うのではないか。私たちによる想像すらもなされたことのない何かは私たちからしても、ひとつとして知られていない上に、存在のどこを探してもない。私たちに知…

その92

存在のうちにりんごがある。存在の場において、りんご性がいかにあるかは、プラスかマイナスで計測できる。ゼロはあっていいのか。りんご性ゼロとは、存在の不在を表さないか。何かがある場には、さまざまな影が兆しているのではないか。りんご性がプラスの…

その91

そこにりんごがないことは、りんごのゼロではなく、りんごのマイナスである。りんごは実在するがそこにはないだけの話であって、どれほどの物質的な性質によりりんごがないか。それを捉えて表そうとしたとき、りんごがないところにりんごがいかにあるかをゼ…

その90

ゼロから1になり、またゼロになる。りんごの一切がないところにりんごはない。りんご性ゼロの地点が存在の流れの中にある。しかし、いつしかりんごの芽吹きがある。ゼロから1となった。ゼロとは何か。ゼロ以前のマイナスが存在の流れの中にあるのではない…

その89

一切が情報であるとしたとき、存在するのは情報であり、構築された情報により生まれた枠組みが個物として実在するものの、枠組み以前にある情報が実在するはずで、できあがった枠組みはいかなる情報が根底にあるのか。りんごがりんごの姿になるための枠組み…

その88

りんごの実存はりんごの構造以上の広がりにある。構造の成立のために与えられる構造があるのではないか。ある構造をもつりんごの内部の成立のために必要な構造がりんごの外部にあるのではないか。存在の流れとは畢竟、構造ではないか。りんごの内部構造はそ…

その87

ある存在の外部であった何かが内部化されることはあるのか。ある存在の外部は動的であり、外部であった状態がそのまま内部化されるのではないとき、外部が内部になるといった表現は適切ではない。aがbになることが外部の内部化であれば、外部は外部であり、…

その86

外部が即座に内部であるとは、何かを基軸しにしたときに生じる外部は存在の流れの中では外部それ自体もまた基軸であり、基軸自体からするとそれ自体は内部である。あらゆる個物はそれ自体であり、それそのものはすべてがそれ自体であるといった意味での内部…

その85

空気に触れていることを空気に触れていると自覚していないのが私たちである。息をしていることも息をしていると自覚していないにも関わらず、息をしているのである。知っていることとは何か。身体内部の構造がどうなっているか、少しずつでも明らかにはなっ…

その84

一口にいうなら、創造的崩壊が事物の現象ではないか。現にある姿から変わっていくことは崩壊であり、そのことが事物の流れを新たに作り出していくといった意味での創造である。作り替えられていく事物は絶え間のない生成の状況にあり、私たちから見ると崩れ…

その83

存在とは、構築されていくのか、崩壊に向かっていくのか。崩壊へと向かう構築なのか。崩壊を間逃れるための構築か。枯れて落ちた葉っぱが土に変えるとき、葉っぱは崩壊へと向かっているが、葉っぱを受け入れる土は構築へと向かっている。葉っぱと土の境界は…

その82

できごとは常に起こっている。何かが起こったことでできごとが起こったのではない。あるできごとが起こったとき、それが起こる前に起こっていたことがあることで、私たちの認識したできごとがある。私たちの認識したできごと以前に起こったことを知らないで…

その81

存在の原因が究極的に実在するのかどうか。何かが存在するときに必ず必要な何かがあるのか。これ抜きに存在は語れないといった事実は実在するのか。実在するかしないかを見出そうとするとき、実在するとしてもつねにしない可能性が除外できないのではないか…

その80

りんごの虚無がりんごの本来の姿だとしても、いかなる主体からしても、りんごの虚無は見えてこない。主体からの把握は主体により主体化される。色彩は主体により与えられたものであるが、対象の物質性との関係性それ自体により生じるのが対象を捉えたときに…