2022-11-01から1ヶ月間の記事一覧

その496

何かがあるのは、その何か以外に原因がある。むろん、何かがあるのは何かそれ自体にも原因があるわけだが、それだけでは当然ない。何かがあるのはどうしてか。何かがそのようにあるのはどうしてか。そのようにあるその原因は、刻々と移ろいゆく世界に原因が…

その495

物質の運動はいずれかの思考性を持っているのだろうか。結果として、いずれかの方向へと向かうが、そう向かって行った何かが、そのすべてにおいてその方向へ向いているのではない。震えである万物が、結果的にある方向へ向かうとき、震えであるそのものをい…

その494

AとBが関係した結果、発生する現象は、AとBにおいて内的に閉ざされていると考えられるが、AとBは閉ざされているだけではない。開かれてもいる。解放系と閉鎖系が同時に存在するとき、何が起こっているか。つまりは、ただあること、そのように現象していると…

その493

すべてが明らかであるとき、すべてが感覚される。すべてが感覚される状況とはありえないが、世界を丸ごと感覚的に知ったことになる。すべての音が聞こえ、すべての色彩がみえる。そんなことが起こるはずもない。起こるはずもないのは、感覚はどんな生命にと…

その492

私たちが認識できるのは一点ではなく、無限のなかほどにある一点ではないか。何かがあることとは、その無限の運動が根底にあって、そのうちに何かしらの一点を認識として見出す。認識はその静寂を意味する。動的な世界のなかで、その無限における一点が認識…

その491

数と数の間に数になりきらない数がある。何かがいかにあるかと問うとき、そのありようが数に置き換わったとしても、その数がそのありようを完全に捉えたというのではない。捉えようとする対象がいかにあるか、それは数の実態では捉えきれないのではないか。…

その490

認識がそのまま世界それ自体に同期するとき、世界を知ったことになる。むろん、それは部分だ。世界の部分を断章的に知ったのだ。ある方程式に数を加えると、その数が動き出し、それがそのまま世界と同期する。世界をそのままなぞる数があるとか、ないとか。…

その489

思考なくして、現実の実感がないというのは、感覚であっても、その情報処理系において実在するのであり、それはつまりなんらかの思考がもとになっていると考えられる。ある感覚を得たのは、対象について、処理した結果である。あらゆることが情報処理系とし…

その488

認識外には一切の飛躍はない。認識内においては、その飛躍があるかもしれない。認識外にはあるがまの世界が広がっているが、そのありようを私たちは知らない。認識内にあることだけを知っている。認識外のことと関係はしているが、いかに関係しているかを認…

その487

変化を追いかけていくと、どうか。存在していた何かは、消え果ててしまうのではないか。消えたとき、その痕跡がどこかにあるか。過去にはその痕跡があっても、現在にはない。未来にもない。いや、過去に残した痕跡が、それ自体ではない、他の何かによって、…

その486

普遍的なことは言語化可能なのかどうか。普遍的であることそれ自体の実在について、何をもって正しいとするのか。永遠にそうであることが普遍なら、それは実在しないのではないか。つまり、いつか何もなくなってしまう可能性にある世界にいるとき、永遠に何…

その485

判断が介在する時点で、それが正しいかどうか、ひと思案が生じる。本来の正しさとは、それがそのように起こっていることではないか。判断はつねに間違いの可能性をひめる。いかなる判断も介在しない、ただそれがそのように起こっていることとは、正しいも間…

その484

認識内のあることがあり、認識内にないことが認識外にある。認識内になく、認識外にもないことはどこにもない。どこかにある何かが認識内にあり、認識外にある。世界とはその、認識内のことと、認識外のことを含んだ実在を意味する。頭のなかにあっても、実…