2022-01-01から1年間の記事一覧

その511

自然を捉えないで、何を捉えているのかといった問いがある。起こったことのすべてが自然だとしたとき、言葉になったこのすべてが起こったことであり、自然である。しかし、言葉になったことのいくつかが現実に合わないことがあるとき、言葉となって現実に起…

その510

精神に宿る意味はそのすべてが限定的であり、それゆえに意味として実在するのではないか。意味が意味として実在するためには世界を限定する必要がある。世界はその実質において限定されているかいないか、それは分からないが、世界が私たちにとって意味を持…

その509

ものと言葉は、その関係を結んでいる部分はある。言葉の影響でものへの影響があるからだ。ものの側からの影響もまた言葉の側にある。この意味で、ものと言葉は関係している。しかし、言葉の中をどれほど探しても、ものは出てこない。言葉のなかにものはない…

その508

りんごがりんごであるかどうかは、何かがりんごの物質性をそのうちに持っているかどうかであり、それはりんごと呼ばれるかどうかとはまったく関係がない。なんと呼ばれようとりんごらしさを抱えたりんごはりんごである。トマトと呼ばれようと、それはりんご…

その507

言語空間外にりんごは実在するだろうか。りんごと呼ばれないりんごがそれでもりんごとして実在することを意味する。あらゆるりんごがりんごと呼ばれるだろうか。りんごと呼ばれずとも、何かがりんごである可能性はゼロではないのではないか。りんごと呼ばれ…

その506

りんご以外のものはりんごではないといった言及は、言語的に閉じている。いや、言語空間において閉じているといった方が適当だろう。りんごはどこまで言語空間内に実在するのか。りんごと呼ばれないりんごは実在可能だろうか。りんごと呼ばれないりんごが実…

その505

認識の実在が個物を実在させているのか。何かがりんごであるとき、それは認識の実在により生じたことなのか。つまり、りんごがりんごであるのは認識それ自体の実在によるところなのか。認識主体の一切がなくても、りんごはりんごではないか。りんごはりんご…

その504

ある紙があって、その紙の実存と関係のある領域が、別の紙の実存と関係のある領域にある。世界にはただひとつの関係性があるのではく、いくつもの関係性の連鎖によって世界はその構造を持っている。あるいは、世界は構造と非構造の実在によって形成されてい…

その503

紙ではない紙は紙ではない。紙ではないからだ。紙は紙であるが故に紙であって、紙ではないものは紙ではない。紙以外のものは紙ではない。紙は紙以外のもののうちにある。紙以外もののうちでその紙と関係していることには、その領域がある。すべてが一枚の紙…

その502

言葉の意味を走らせるのは、その使用者であり、言葉そのものではない。言葉はその意味を持つが、その意味とは、それ以前にある世界の状況により決定づけられる。言葉になる前の何かがいつしか言葉になる。その言葉は、誰かの出した判断であるが、その判断の…

その501

完全な認識が完全あることをいかに保証可能か。完全さは認識内にしかない。認識外には完全さも不完全さもない。ただそのようにある。それが正しいといえば正しいが、正しいといえば、間違いがあることになり、ただそれがそのようにあることにおいては、正し…

その500

何があるのかは分からない。何かがあるが、それはその実在の途中における話に過ぎない。あるにはあるが、それがいかにあるか、その一部始終の説明が完全になされることはない。なされた説明の外にさらなる説明が潜んでいる可能性にある。可能性を消し去るこ…

その499

何かがあるといっても、その何かが明らかではないとき、何かがあるといっている、その言葉だけがあり、その実体はあるのかどうか。何にしろ、あるといえばある。しかし、言葉で表現されたことがあるのと、実際にそれがあるのは、違うのではないか。いや、言…

その498

意識のない状態でも、人は生きていることが植物人間からも明らかとなる。いや、意識がないかどうか、そこは簡単にはいえない。植物人間でも意識があるから生きていられるのかもしれない。意識はないが生きている状態が実在するかどうか。 何かがあれば、何で…

その497

理解可能なのはすべてが認識内にあるからではないか。そのとき、理解されていることはすべてが認識内にしかない。認識内そのものが私の思う世界となる。世界が仮に、認識内にしかなければ、私は世界それ自体において実在していることにはならない。むろん、…

その496

何かがあるのは、その何か以外に原因がある。むろん、何かがあるのは何かそれ自体にも原因があるわけだが、それだけでは当然ない。何かがあるのはどうしてか。何かがそのようにあるのはどうしてか。そのようにあるその原因は、刻々と移ろいゆく世界に原因が…

その495

物質の運動はいずれかの思考性を持っているのだろうか。結果として、いずれかの方向へと向かうが、そう向かって行った何かが、そのすべてにおいてその方向へ向いているのではない。震えである万物が、結果的にある方向へ向かうとき、震えであるそのものをい…

その494

AとBが関係した結果、発生する現象は、AとBにおいて内的に閉ざされていると考えられるが、AとBは閉ざされているだけではない。開かれてもいる。解放系と閉鎖系が同時に存在するとき、何が起こっているか。つまりは、ただあること、そのように現象していると…

その493

すべてが明らかであるとき、すべてが感覚される。すべてが感覚される状況とはありえないが、世界を丸ごと感覚的に知ったことになる。すべての音が聞こえ、すべての色彩がみえる。そんなことが起こるはずもない。起こるはずもないのは、感覚はどんな生命にと…

その492

私たちが認識できるのは一点ではなく、無限のなかほどにある一点ではないか。何かがあることとは、その無限の運動が根底にあって、そのうちに何かしらの一点を認識として見出す。認識はその静寂を意味する。動的な世界のなかで、その無限における一点が認識…

その491

数と数の間に数になりきらない数がある。何かがいかにあるかと問うとき、そのありようが数に置き換わったとしても、その数がそのありようを完全に捉えたというのではない。捉えようとする対象がいかにあるか、それは数の実態では捉えきれないのではないか。…

その490

認識がそのまま世界それ自体に同期するとき、世界を知ったことになる。むろん、それは部分だ。世界の部分を断章的に知ったのだ。ある方程式に数を加えると、その数が動き出し、それがそのまま世界と同期する。世界をそのままなぞる数があるとか、ないとか。…

その489

思考なくして、現実の実感がないというのは、感覚であっても、その情報処理系において実在するのであり、それはつまりなんらかの思考がもとになっていると考えられる。ある感覚を得たのは、対象について、処理した結果である。あらゆることが情報処理系とし…

その488

認識外には一切の飛躍はない。認識内においては、その飛躍があるかもしれない。認識外にはあるがまの世界が広がっているが、そのありようを私たちは知らない。認識内にあることだけを知っている。認識外のことと関係はしているが、いかに関係しているかを認…

その487

変化を追いかけていくと、どうか。存在していた何かは、消え果ててしまうのではないか。消えたとき、その痕跡がどこかにあるか。過去にはその痕跡があっても、現在にはない。未来にもない。いや、過去に残した痕跡が、それ自体ではない、他の何かによって、…

その486

普遍的なことは言語化可能なのかどうか。普遍的であることそれ自体の実在について、何をもって正しいとするのか。永遠にそうであることが普遍なら、それは実在しないのではないか。つまり、いつか何もなくなってしまう可能性にある世界にいるとき、永遠に何…

その485

判断が介在する時点で、それが正しいかどうか、ひと思案が生じる。本来の正しさとは、それがそのように起こっていることではないか。判断はつねに間違いの可能性をひめる。いかなる判断も介在しない、ただそれがそのように起こっていることとは、正しいも間…

その484

認識内のあることがあり、認識内にないことが認識外にある。認識内になく、認識外にもないことはどこにもない。どこかにある何かが認識内にあり、認識外にある。世界とはその、認識内のことと、認識外のことを含んだ実在を意味する。頭のなかにあっても、実…

その483

認識外と認識内を截然と区分けすることはできないのか。認識していないことはそれでも認識していないのであり、認識していることは認識しているのであり、それは排中立にないか。認識の現象におけるあいまいさはどこまであるか。認識していないようでいて、…

その482

認識流転性それ自体の内側にいつもいるようでいて、むろん、存在している誰もが認識外とつながっている。実存的には認識内と認識外において存在しているのであり、認識内だけに実在することはあり得ない。もっとも、我思う故に我ありというのであれば、思う…