2023-11-01から1ヶ月間の記事一覧

その621

存在のぜんぼうを理解することができないのは、理解したか、できていないか、その判断が永遠にできないからだ。実在はあるようにあるだけだが、そのありようについては、我々が決定づけることはできない。

その620

世界がどこまで開かれているのか、それは知らない。そもそもにおいて、世界それ自体の物理的中心はいわゆるところの私ではない。もちろん、私かもしれないが、その可能性は限りなく低い。というか、可能性はゼロではないか。生きている誰かがこの世界の中心…

その619

我々人類は誰もが世界に埋め込まれた実在であり、つまりは存在の一部である。我々は誰もが単に存在の一部であるということに過ぎないのではないか。存在のすべてと関係しているのではないのではないか。ある個人と関係のある物事と関係のない物事がある。そ…

その618

認識は閉じていることで成立するが、認識内容は認識内において閉じていないはずだ。閉じているから成立するものが閉じていないこととは何か。認識はその成立にあることで実在している。その成立のためには、何がどうなっていればいいのか。つまり、認識内で…

その617

世界を認識したその認識がなぜ成立するのか。認識は認識内において完結している。つまり、閉じているのだ。すべての認識は閉じている。閉じているから具体的にある。それはりんご一個であっても、そうではないか。閉じているから具体的にある。むろん、閉じ…

その616

過去の世界と現在の世界は実質的には分かれていないはずだ。しかしなぜか、過去の世界があって、現在の世界がある。過去の世界とは、しかし、認識内の実在でありながら、認識外の実在でもある。世界とはそもそも認識内に閉ざされたものではない。世界の広が…

その615

一瞬で世界のすべてが判明する数式があるなら、それは万物に対する数式となるが、それは実在するだろうか。あるりんごであっても、その一瞬をいかに認識可能か。あるりんごの一瞬は一瞬しかない。その一瞬を逃してしまえば、その一瞬はもはや再現できない。…

その614

たとえば、一個のりんごのすべてがどのような運動状態にあるか、そのすべてを捉え切ることができた数式は存在しない。誰も一個のりんごの全体像について知らない。知らないが、一個のりんごは確かにその全体としてある。

その613

事実は存在しないわけではない。事実とは、信仰によってできあがる。信仰によって下支えされていることは、そのすべてが事実ではないか。永遠普遍に正しいかどうかが事実の意味ではない。各人によって信じられていることのすべてが事実である。あることにつ…

その612

あらゆる事実は信仰とともにある。われわれに信仰的な態度があることで、この世界には事実がある。事実とは、言葉によって示される。放たれた言葉はそれ自体が事実を示す場合と、事実を示さない場合がある。むろん、事実を示す言葉は世界中の誰にとっても事…

その611

つまり我々は可能性の中を生きているのかもしれない。認識していることのすべてが厳密には可能性でしかないとき、我々は自らの打ち立てた可能性の中を生きている。事実というもののすべてが信仰であり、実質的には可能性でしかないのではないか。すべての事…

その610

世界は確かにある。そのすべてはモノなのか。コトも確かにある。この世界にコトはある。しかし、存在するコトをどれだけかき集めても、一個のリンゴすらできあがらない。そんなとき、コトのある意味とは何か。一個のりんごの部分を構成するコトだけが独立し…