2023-02-01から1ヶ月間の記事一覧

その540

有における現象のどこかに境目があるのかどうか。ないなら世界は一本の線で貫かれている。すべてがつながっているなら、すべては一本の線で貫かれている。震える一本の線で貫かれた世界なのだろうか。一本でないなら、何本の線で貫かれているのだろうか。あ…

その539

何かが発生して、消滅するまでに、その何かは世界のすべてと関わりを持つだろうか。否、世界のすべてと関わりを持つことなく、持とうとして動いていても、その自然において消滅するのではないか。そこに境界がある。世界上に現れているすべてのうちから姿を…

その538

生命の現象が非生命の現象と関わっているとき、生命の現象は非生命の現象を含んでいる。生命現象が非生命現象を含んでいるとき、非生命現象は生命現象の一部である。そのとき、生命と非生命の境界は実在するのか。関わりのあることがそれ自体、いかにあるか…

その537

何かがあるのは、それがあり得たのであり、あり得るための環境がまず先にあって、そこにというか、その流れののうちに何かが出現した。出現した何か以前にそのための要因となる流れがあった。流れゆく万物のうちにさまざまな事象が発生していく。そのうちに…

その536

何かが何かであるといったことはない。何かとはつねにいかにあるかである。つねにいかにあるかである何かは、何かでありつつも、その状態が他の何かによってでき上がっている。何かとはその状態のことであるが、その状態がいかにできあがっているかを考えた…

その535

真実は多様にあり、その真実多様性が世界を動かしている。ある一個の現象について、いくつもの姿によって語られるとき、ある一個の現象についての解がいくつも多様にあることになる。そのいずれもがそう述べられたことにおいて真実である。ある一個の現象に…

その534

世界を感じたとしても、それがそのまま世界の真実かどうか。感じたことそれ自体は真実といっても差し支えないが、感じたことだけが真実なのではない。というか、感じたことは、感覚主体と世界の関係において真実なのであり、感覚対象である世界の断片がいか…

その533

事実が事実であっても、それが明らかどうかが定かでない現象をまえに、私たちは何を認識できるのか。認識として成立していることが可能性としてしかないとき、私たちは一切の認識を絶対的なるものとして持つことができない。事実はいつも事実かもしれないの…

その532

そのすべてとしてあるから実在可能なのかどうか、というか、単にすべてとしてある、そのことを世界と呼んでいるに過ぎない。世界は存在のすべてを含む。そう定義したとき、いったい何が詰め込まれているのか、その全容は誰の知るところでもない。確かに全体…

その531

理性界では思考されるが、世界そのものがそのように運動しているのではない。世界そのものがそのように運動していることとはまったく決別した場において自在するのが理性界ではないか。世界のことについて思考するその運動が内在される理性界は、世界それ自…

その530

私たちにとっての現実はつねに理性界のフィルターを通過したのちにある。純粋直感がそのまま現実となることはない。かりに純粋直感がそのまま現実であったとしても、それは理性界で精査された結果、現実となる。私たちの現実は、現実かどうか精査された結果…

その529

思ったことのすべてが現実のことであれば、どれほどのこととなるだろう。残念ながら、思うことのすべてが事実というのではない。そう思ったということは事実だが、それが現実に当てはまるかどうか、それはまた別の話で、精査していく必要がある。つまり、流…

その528

存在というものには、始まりや終わりがあるのか。存在することについてである。存在することについて、それがいかにあるか。それは一元的に述べられるものではないのではないか。存在となれば、それがいかにあるかは、いくつかの個別性に分かれているのでは…

その527

生命には生命現象の向こうとの関わりがあるのか。何かが生命であるとき、始まりがあり終わりのある生命現象に向こうと生命は関係を持っているのか。つまり、生命とは生命である以上の存在であるといった意味を持ち、それゆえに、生命には始まりと終わりがあ…

その526

永遠は永遠であるが故に永遠である。永遠とは、その終わりのなさである。つまり、無限である。果てがない。いや、実在上において果てがあるなしの話ではない。この世界に終わりがあるかないか、それは、この世界に運動があるかないか、完全に運動が消え去っ…