2020-01-01から1年間の記事一覧

その139

存在する関係性を理解することは、認識対象内部の関係性の増加を意味しない。発見するか否か違いがあるのみで、あるものはある。ないものはない。知ることが可能かどうかに過ぎない。認識とは、関係性の構築ではない。すでにあるものを見出すこと。すでにあ…

その138

認識とは、その認識に外部からの働きかけがないときは閉じた系となるが、働きかけがあることを前提で考えれば、認識はさらなる運動をするのだから、解放系である。関係性それ自体が一個の認識のうちでさらなる発展を遂げることが考えられる。ある対象につい…

その137

りんごのための雛形があって、その枠組みなかで展開されるのがりんごだとして、その雛形はどうやって実在したかを考えなければならない。それはなかった。なかったものがあるようになった。そのことはすべてにあてはまる。現在より先の存在はすべてがどこに…

その136

りんごの具体性とはりんごの関係性にある。あらゆる個別のりんごはそれぞれの関係性を持つ。そのなかで唯一と言える関係性があるのか。そのいかなるかはここでは書けないが、在るのならあるし、ないのならない。関係性のあり方における、りんご固有のあり方…

その135

あらゆる異なったりんごについて個別に把握することでしか、りんごの総体を捉えることはできない。ひとつとして疎かにできない。りんごとは何かを考えたとき、個別のりんごのありようの総体からどうやっても抜き出すことのできない何かがあるなら、それをり…

その134

認識はそれ自体で成立しているとき、完全である。私たちがそう認識したことにおいて完結していることで、その成立をみるが、その認識はさらなる発展の契機を含んでいるのではないか。認識対象における関係性の複雑さは計り知れない。複雑さをひたすらに紐解…

その133

私たちとはその認識による存在であり、認識に規定された理解のうえで存在を捉えている。認識されていないことも含んだ存在のうちにある。存在は私たちの認識以上の広がりを持った上で実在するのであり、認識されていないから存在としてのあり方としては異な…

その132

全体を持たない認識は認識として成立するのか。認識とは運動する存在を止めることで成立するものではないか。実際には止まっていない存在を認識はいかに止めるのか。認識それ自体は止まっていることで認識される。止まっていないものは動き続けるが、動き続…

その131

認識対象の実在は、それが対象として着目されたとしても、それ自体が関係性のうえで実在しているので、対象自体の実在が不完全である。対象はそれ自体で成立しないのではない。対象としたものごとが関係性のうえで実在しているので、その運動のあり方の全体…

その130

認識は関係性のうえで真である。私の認識は私と対照のあいだに生じた事実であり、その限りのおいては真である。認識対象に対して、いくつもの認識があること。いくつあっても、その関係性のうえで事実であるとき、それらいずれもが真であり、認識対照からた…

その129

認識とは考えることなくとも所有される。何かを捉えるとき、対象をそのまま受け入れることは可能ではないか。常にとはいかない。しかし、一個の石の存在を絶対肯定したとき、石と私のあいだには、石のありようが私との関係性のうえで生じる。存在は関係性そ…

その128

そのものそれ自体は存在するのか。そのものそれ自体は、関係性それ自体であり、かつ、関係性の運動であり、動的なそのものをそのまま把握することはできない。できないがそのものはそのまま、あるがまま実在している。知り得ないが実質的に存在はすべてがあ…

その127

変わりゆくものの流れが認識されるのは、その流れの一切と同一であるときでしかない。流れそのものの移り変わりである存在はその一切の実質的な認識を持つことは不可能でしかない。そのものがいかにあるかはそのもの自体であり、外部からの認識はそのものそ…

その126

認識は断片でしかないのか。全体自体が明白でないとき、全体にあてはまる認識かどうかの判断はつかない。全体があるから認識されうることがあるといった見方があるとしても、やはり全体は、それがなんなのか分からない。分からないことが先にあり、そのこと…

その125

認識とは、何かを認識することと同時に、認識している領域についての認識が欠かせない。認識がどの領域での認識かを把握したうえでないと、認識したことの妥当性が根拠を持たない。確かにそうであるといったとき、その事実が当てはまる領域がある。原理的に…

その124

形質なき存在とは何か。形も質感もないが存在する何かとは、いかにあるのか。意味として私たちに見出されないだけで、なんらかの意味を持った存在があるのではないか。なんらかの意味を携えているが、把握されなければ、私たちにはその意味がまったく理解さ…

その123

余白は存在のうちにある。余白とは何か。存在における不定形の何かか。存在するもののいかなる形質を持たない何かを形質をもつ存在に対して余白と考えられないか。何ものでもない何かがあることで存在は運動をすることができる。形質をもつものは、何もので…

その122

未完の現在だからこそ、存在は動的である。存在が現在にあると考えたとき、現在が完成されたものであれば、その運動がない。運動するのは、存在にその余白があることを意味するのではないか。余白を同時に抱えていることで、存在は現在において運動をする。…

その121

異なった時間が現在を構成しているといった矛盾を孕んでいるのではないか。存在は現在において実在するとしても、現在とは異なった時間の総体であると考えられる。現在とはその運動であり、現在の運動は現在において完結するのではなく、未完結の状況にある…

その120

時間がその滞留であるとき、その運動は全方向的だと考えられる。いずれかの方へ進んでいるのが時間ではないとき、であるが故に時間は実在すると考えられる。一方向に進むのではいことが、存在を空間に実在させているのではないか。現在とは滞留する時間によ…

その119

繋がりあっている部分がいつあるか。いつなのかを問うことで、繋がりの実質が明るみにでる。つながっていること同士は同時刻にあると考えることは可能か。時刻とは場において異なるのだから、広がりであるつながりはそのつながりにあっても部分で時刻は違う…

その118

存在はつながろうとして動いていると考えたとき、存在はするが相互に繋がっていない部分があると考えられる。すべてが繋がってしまえば、存在の動きは止まってしまうと考えたとき、繋がっていない部分があるが、繋がっていない部分が繋がってしまったとき、…

その117

水が水であることは水であることに押し留められているのであり、エネルギーが水の性質を持った姿でいることを意味するのではないか。万物を万物たらしめているのは、エネルギーの流れであり、その流れがどうなるか。流れ方が存在に形を与えているのか。存在…

その116

存在は私たちにとって、視覚的には像として映し出され、迫ってくる。いかなる認識を持とうと、そのものの停止した様を取り出すことはできないのだから、何もが流れの中にある。流れとはエネルギーの流れではないか。流れているエネルギーが姿を変えて、水で…

その115

像がある。私たちにとってはそれが何であっても、像に過ぎない。石であっても、その実体は認識主体の側からすると存在し得ない。そのフィシスからすると何にもが実体である。実体であるそのものは一瞬の停止も持たない。停止しないものがそれ自体であるとき…

その114

なぜ存在は個別に実在すると考えられるのか。系の実在が存在を個別化しているのか。存在が個別に実在するとき、その運動を形作っているのは系ではないか。まず先に系があることで個別の実在があるのではないか。系とは何か。存在に形を与える運動か。系もま…

その113

そのものそれ自体が実際にある姿を見つめることはできない。認識は機能に由来した上での実在であり、機能とは存在に対する定義であり、認識主体の実在がなければ、何も存在し得ないのではない。存在は私たちの支配下にあるのではない。存在が私たちを支配下…

その112

存在することと、存在しないことがある。存在することとしないことははっきりと別れているのか。存在は運動であり、存在しないものが存在するようになることがあるのであり、存在するとしないの間にあるのが存在の運動ではないか。存在しているのは存在の停…

その111

何かが物質的であっても、その事実をもとに考えていったとき、その認識主体である私たちにとっては、その非物質性もまた現実となるのではないか。認識される何かがつねに物質的であり非物質的であるとき、私たちは触れ得るものを触れ、触れ得ないものをそれ…

その110

運動する実体が非物質であることは考えられない。形がないとしても、物質である存在はある。そのものが物質性を持ちつつも、同時に物質性を持たない存在があるのではないか。愛とは物質的な側面と非物質的な側面を同時に持っているのではないか。いずれかに…