その632

断片だがそれは世界の断片であり、世界の断片とは、世界との関係を結んだままの断片であり、世界との関係を結んだままの断片は世界の運動に合わせて変化していく。それゆえに、というか、運動し続けている世界を切り取って成立する我々の認識断片はその運動…

その631

世界の部分を切り取ったかのような私たちの持つ認識はそれ自体が断片的な印象にあっても、それ自体の実在は、それ自体が世界と関係を結んでいることを意味している。我々の認識はそれ自体がどれほど断片的であっても、世界とつながったままの断片である。世…

その630

すべての発明や発見はすでに世界にあるものであり、すでに実在しているから、たとえば、数式などもそのような姿で実在可能なのだ。それがどれほどのものであっても、実在するかしないかは、世界それ自体がそのようにあるか否かであり、世界の姿の一部を言語…

その629

すべては世界が算出しているのであり、我々がいかなる発明、発見をしたところで、我々が世界に働きかけることで生み出されることだ。そもそもにおいて、世界にすでに実在しているから、何らかの数式などを掘り出して発掘できるのではないか。我々が見出すす…

その628

我々に理解可能なのはすべてが理論上の話であって、理論として成立しないものをどのように捉え、実質的なありようとして受け入れることができるだろうか。ただそのようにあるそのことをそのまま受け入れることならできるが、それはだたそのようにあることを…

その627

絶対無が実在したなら、その時点で永遠はない。世界が永遠であるなら絶対無は実在しない。世界が永遠である条件とは何か。理論上、世界が永遠である可能性が消え去らない、その条件とは何か。

その626

何かだけがある状況それ自体は実在しない。では、この世界にかりに原初なるものがあったとき、原初はいかに発生するだろうか。不可能ではないか。つまり、原初とはまず何かだけがある状況それ自体ではないかと考えられ、それであれば、何かだけがある状況に…

その625

認識それ自体は、その実在性をして、世界における定点であり、その定まりは認識主体と認識対象のあいだに発生する。さて、すべての認識を掛け合わせたなら世界はできあがるか。できあがらない。世界はすべての認識の外にも広がっている。認識されない世界も…

その624

ある瞬間に何かが完成することはない。どんな瞬間も未完のままだ。それは、ある瞬間を完全に捉え切ることができないからだろうか。認識はそれ自体として成立することでその意味をもつ。そのようであることに意味があるが、それは認識対象におけるそのすべて…

その623

到達したある点において存在する何かの完成形は、それが何かであることが原因で完成する。それが何であっても具体的な何かであるとき、それ自体がつねに運動しながら完成した姿にある。イデアとはだから、何か具体的な物事のことであり、それがいかなる姿で…

その622

存在するそのすべてのすべてがいかにあるか、明らかとなるはずはない。いや、存在するものとは実際において、いかにあるのか。かつて存在していたものは今現在においてはない。いや、ないのかもしれないし、あるのかもしれない。どこにあるかはっきりしなく…

その621

存在のぜんぼうを理解することができないのは、理解したか、できていないか、その判断が永遠にできないからだ。実在はあるようにあるだけだが、そのありようについては、我々が決定づけることはできない。

その620

世界がどこまで開かれているのか、それは知らない。そもそもにおいて、世界それ自体の物理的中心はいわゆるところの私ではない。もちろん、私かもしれないが、その可能性は限りなく低い。というか、可能性はゼロではないか。生きている誰かがこの世界の中心…

その619

我々人類は誰もが世界に埋め込まれた実在であり、つまりは存在の一部である。我々は誰もが単に存在の一部であるということに過ぎないのではないか。存在のすべてと関係しているのではないのではないか。ある個人と関係のある物事と関係のない物事がある。そ…

その618

認識は閉じていることで成立するが、認識内容は認識内において閉じていないはずだ。閉じているから成立するものが閉じていないこととは何か。認識はその成立にあることで実在している。その成立のためには、何がどうなっていればいいのか。つまり、認識内で…

その617

世界を認識したその認識がなぜ成立するのか。認識は認識内において完結している。つまり、閉じているのだ。すべての認識は閉じている。閉じているから具体的にある。それはりんご一個であっても、そうではないか。閉じているから具体的にある。むろん、閉じ…

その616

過去の世界と現在の世界は実質的には分かれていないはずだ。しかしなぜか、過去の世界があって、現在の世界がある。過去の世界とは、しかし、認識内の実在でありながら、認識外の実在でもある。世界とはそもそも認識内に閉ざされたものではない。世界の広が…

その615

一瞬で世界のすべてが判明する数式があるなら、それは万物に対する数式となるが、それは実在するだろうか。あるりんごであっても、その一瞬をいかに認識可能か。あるりんごの一瞬は一瞬しかない。その一瞬を逃してしまえば、その一瞬はもはや再現できない。…

その614

たとえば、一個のりんごのすべてがどのような運動状態にあるか、そのすべてを捉え切ることができた数式は存在しない。誰も一個のりんごの全体像について知らない。知らないが、一個のりんごは確かにその全体としてある。

その613

事実は存在しないわけではない。事実とは、信仰によってできあがる。信仰によって下支えされていることは、そのすべてが事実ではないか。永遠普遍に正しいかどうかが事実の意味ではない。各人によって信じられていることのすべてが事実である。あることにつ…

その612

あらゆる事実は信仰とともにある。われわれに信仰的な態度があることで、この世界には事実がある。事実とは、言葉によって示される。放たれた言葉はそれ自体が事実を示す場合と、事実を示さない場合がある。むろん、事実を示す言葉は世界中の誰にとっても事…

その611

つまり我々は可能性の中を生きているのかもしれない。認識していることのすべてが厳密には可能性でしかないとき、我々は自らの打ち立てた可能性の中を生きている。事実というもののすべてが信仰であり、実質的には可能性でしかないのではないか。すべての事…

その610

世界は確かにある。そのすべてはモノなのか。コトも確かにある。この世界にコトはある。しかし、存在するコトをどれだけかき集めても、一個のリンゴすらできあがらない。そんなとき、コトのある意味とは何か。一個のりんごの部分を構成するコトだけが独立し…

その609

起こったことが世界を作っている。起こっていないことは起こっていないのだから、どこにも実在しない。実在するものだけがある。実在することは精神のうちにのみある。ものはコトが集まってものになるが、そのものができるためのコトのすべてを知らない。わ…

その608

考えたことについて、起こること、起こらないことがある。起こることだけを認識として持つことはできない。純粋に推論を停止し、起こったことだけを認識するなら、認識内には事実しかない。未来について思考することで認識があいまいになる。すべては起こっ…

その607

認識の完成は、可能性、そのすべての消滅による。わずかにでも可能性として考えられることがあった時点で認識は不完全なままだ。

その606

個別には方向があっても、世界の全体にとっては方向があるのかどうか。個別にあるいくつもの方向が自然と自己組織化し、世界の全体を方向付けているのかどうか。世界の全体に方向があるとしても、認識可能なのかどうか。世界の全体の方向はまず世界の全体の…

その605

動いているものはすべてが世界の一連の流れの中にあるのか。世界とは果たして一続きの流れにあるのか。一続きの流れに世界があるなら、世界で起こっていることにはすべて順序がある。ミクロを観察したとき、流れていく世界の順序が明白になるだろうか。否、…

その604

この世界の実質がカオスにあるとしても、そのカオスとは何か。世界のすべてが秩序立っていれば、世界はすべてが動かない。世界はカオスにあるから動く。

その603

未来から過去に時間が流れている。そう言われることがある。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。時間は存在しないとも言われ、それは単に認識内における事実にすぎず、いや、時間は存在しないといった意味が認識内における限定的な話に過ぎず、つ…