2020-07-01から1ヶ月間の記事一覧

その46

私たちの知っているりんごは、りんごと私たちの関係性それ自体ではないか。りんごを知っているのではない。徹頭徹尾、私たちがりんごについて知っているといったときの意味は、りんごと私たちのあいだに横たわる関係性のことである。私たちの知っていること…

その45

一個のりんごでも明かし尽くされることがないのは、明かそうとする行為自体が関わろうとするりんご自体がすでにほかのりんごである事実をどう受けとめるか。明かそうとする対象と明かそうとする行為が物質的な次元で、いかなる関係性であるか。明かそうとし…

その44

いずれにせよ、存在するものごとはそのすべてが意味を秘めたうえで実在している。存在から意味を奪うことはできない。私たちに気がつかれることのない意味がある。可能性としては永遠に気がつけない意味が存在のうちに秘められていると考えることのほうが妥…

その43

りんごが一個、内的な循環にある。内的な循環は循環の経路がシステムとして純粋な内部性を保持していると考えられるが、一個のりんごの内的な循環経路が混ざりけのない実質で出来上がっていると考えることは早計ではないか。りんごをりんごたらしめる内的な…

その42

始まりがなければ存在は存在し得ない。始まるための要因は、始まろうとすることの外部にある。はじまっていないときの状況が始まりをうむ。何かが始まったとき、始まるための要因が出そろったと考えられる。始まるための要因は始まることの外部であるが、そ…

その41

存在の本当の姿であるはずのフィシスが私たちにとって影であることと同時に、存在への私たちの眼差しである認識のイデアもフィシスからすると影である。私たちは存在に対して、その影としての認識しか持てない。いかなる存在もその存在の影しか認識できない…

その40

存在とは運動の姿であるとき、運動そのものの広がりの仕方がたとえば一個のりんごである。りんごが一個ある状況について何が言えるのか。あくまでも私たちの側からの認識に過ぎない。りんごのいかなるかは、りんごの他の何との関係にあるかで異なる。私たち…

その39

私たちとは認識する一個の滞留する姿ではないか。思いイメージを描く私たちは、存在について、思弁を重ねる。存在そのもののすべてが収まる記述が用意されることはない。私たちの思弁的な姿をもとにした存在のありようのすべて以上の広がりを存在はもってい…

その38

流れの一部である私が流れていることに間違いはない。私が止まっているような錯覚を覚えることがあるのは、私たちの認識機能による。何かを認識することとは、対象をいったん止めるようなことであるから、私たちは止まった物事のうちにいるような錯覚を覚え…

その37

りんごが一つの系であるとしても、りんごの実態は純粋なりんご性による構築ではない。りんごの実態は即、非りんごを含んでいる。完全にりんごではないものがりんごの成立のための何かであるとき、りんごであることはりんごでないことを完全に含有する。確か…

その36

りんごが一つの系であるとしても、りんごの実態は純粋なりんご性による構築ではない。りんごの実態は即、非りんごを含んでいる。完全にりんごではないものがりんごの成立のための何かであるとき、りんごであることはりんごでないことを完全に含有する。確か…

その35

りんごの存在は概略系を示す。変動するりんごは崩れて、りんごではない状況にはない。りんごがレモンではないのは、りんごが概略系だからだ。概略系の存在は、存在を個別化する。何かがあれば世界は存在するが、個別化した何かの存在は概略系の存在を明らか…

その34

なぜ場が存在するのか。場とは何か。何かしらの系だとしたら、系に内部と外部がある。領域として定まることが存在するとき、その領域には領域外が実在しないと領域の成立がない。りんごがりんごであるための領域がりんごか。それはどこまでか。存在のすべて…

その33

存在する世界のどこであっても存在できるわけではない私たちは実存的に条件づけられている選択的実在であると言える。私たち自身に選ばれているのか、外部により選ばれているのか、いずれもが現実であるとき、私たちは外部環境との間に実在すると考えられる…

その32

合理性とは枠組みであり、領域であるのか。部分である合理性とは全体に対していかなる反応をするのか。全体とはその運動である。私たちの認識の領域の外につねに存在するのが世界である。認識は合理的にしかなされないのか。合理的な認識は、私たちに領域を…

その31

私が一個の情報系であるとき、目の前にあるコップ一杯の水とどういった関係にあるか。私と水を包み込む系があり、私と水を隔てる系があると考えられる。ある領域がどれほどの系を包摂しているかは知らない。領域の設定とは私たちの認識の設定である。認識領…

その30

世界がひと繋がりだとしたらと考えることができるが、私たちは認識であり、その主体である。私たちは私たちの認識内存在であり、認識の外にも世界は広がっている。少なくともその可能性は常にある。世界をひと繋がりに考えるとき、考える主体である私たちが…

その29

一瞬先とは何か。目の前には、立ちはだかった巨大な壁がある。越えようにも超えることの永遠にできない壁を、そうと気がつくことなく、生きている。ふ可能性を永遠に抱えていることが永遠の存在を実在のものとする。永遠はあるのか。私たちの実存的な不可能…

その28

存在はするが、関係のないもの同士という関係はあるのか。ある時刻に起こったことが、他の時刻に起こったことと永遠に交わらないとき、存在は分断にある。AとBが永遠に交わらない可能性を持ったのが存在のありようではないか。ただそれでも単に、私たちに認…

その27

世界とは私たちのイメージする存在である。私たちは世界を措定することで世界が存在することを理解するが、あくまでも措定であり、実質的には世界は存在しない。措定とは止めることであり、運動し移り変わる世界は本来であれば、措定され得ない。動いている…

その26

一瞬とは限りなく僅かな量の時間である。無限の小さくても、ゼロにならない数で示された時間は私たちの認識内には実在しない。厳密には認識内に実在しないとしても、存在としてはあるのか。一瞬といった概念があるだけで、具体的にどれほどの時間かは示せな…