2023-01-01から1ヶ月間の記事一覧

その525

事実はつねに期限つきだ。永遠の時間があるとき、たとえばいまある世界の次元が終わりを迎えることは十分に考えられる。いまあるような世界が永遠なる時間のうちに続くことは考え難い。まず先にある永遠を想定したとき、世界は非線形的にある。つまり、永遠…

その524

カオスはカオスのまま認識されない。カオスとは、どうあったとしても、私たちの認識内においてのカオスでしかない。認識外で何がどのように起こっているか、誰か知る人がいるだろうか。知っていることのみを知っている。それはすべて認識内における話に過ぎ…

その523

何かがあるからであり、何かが起こるからであり、何かが関係しているから言葉がその意味を持つのである。何も起こらなければ、いや、そんなことはない。何かが起こるから世界がある。何かがある。何かがあれば、何かが起こっている。そこへ認識主体が発生し…

その522

事実かどうか、それは関係がない。考えた過程のすべてが認識内にある。そのすべてが言葉になっているのではない。言葉になっていないことを知らないと言い切れるだろうか。言葉になったことの背後には言葉になっていないことが少なからずあるのではないか。…

その521

私たちはいつか認識の外側にでることができるか。どこまでも認識を拡張していくことの意味とは何か。拡張していった認識はいつか認識外と繋がるとのか。認識外とつながった認識は認識の拡張を意味するに過ぎないのか。認識外の認識とつながった認識はたんに…

その520

不純な認識を通じて捉えられている世界は、その本来においては純粋だ。世界が純粋でなくなったら、その存在はありえない。純粋であるが故に実在する世界をそのまま純粋に認識することはできない。私たちにとって世界はつねにどこかしら不純である。純粋でし…

その519

数式それ自体が捉えた運動は、ある構造的な運動ではないか。構造的な運動しか捉えることができないのではないか。認識の限界を示すことができても、それ以上、何が認識できないかを示すことはできない。 構造を持たない何かを認識できるだろうか。構造を持つ…

その518

認識は運動する。数式であってもそれは運動に合致することで実在している。数式は動かないというか、数式はある構造を示すのであり、それは単に、あるパターンのことではないか。数式が捉え切った世界の構造とは、そのようなパターンが実在していることを意…

その517

認識とは単に、何かの状況についての認識である。状況について認識しようとしたとき、何が認識可能か。動いている動きをそのまま認識できるだろうか。動いている動きは、そのすべてが認識可能だろうか。認識可能なことは、他と関係のない、限られた構造に過…

その516

認識の限界は超えられていくが、永遠に超えることのできない限界として、「認識しようとしていることが他と関係があるとき、それは認識できない」といったことがあるのではないか。認識として成立するためには、その他と関係があってはならないのではないか…

その515

世界には外部はない。ただあるようにあるのが世界だろうが、そのように世界を認識することはできない。世界とは存在がそのようにあるがままあることを意味したとしても、そのような世界は私たちの認識内にはない。それなのになぜ私たちは世界を認識できるの…

その514

なぜ人工的であることが特別に感じられるのか。それは実存的な意味で特別なのであり、起こっていることを外から見れば、何かにつけ、起こっていることが起こっているのである。起こっていることのうちで、外から見ることで、そこに分別が発生する。分けて捉…

その513

どのようなものでもそのようにあることがその自然ではないか。人間が関与することで発生することも、むろん、自然である。人工的であることの意味とは人間が関与して生み出した自然のことではないか。

その512

自然とそこに何かがある。コップ一杯の水があるとき、それは自然の現象としてある。何も相転移することばかりが現象ではない。路上に石が転がっていることもまた自然の現象の一端である。自然と石がある。自然と風がふく。扇風機の風であっても自然に起こっ…