その274

 何があるのか。あるものはすべてある。ないものはない。なくともあるようになる。あるものもなくなる。あるかないか。認識内において、ある、や、ない、とする場合、領域が設定された話になる。認識内においてあるのであり、ないのである。それは認識内存在となり、領域が設定された上での話は、あらゆる認識は認識内での話に過ぎない。それがそのまま存在のピュシスかどうか、それは違うと考えたほうがいいのではないか。固定された実在がそのまま存在の運動にあてはまるとは考え難いことから、認識と存在がどこまで一致しているか、その確証をとることは難解である。

 存在のあり方は、その法則によるところと、そうではない、カオスにある。カオスもまた認識上においてのカオスであるのか、それとも起こっていることのすべてにはその法則が発見されていないだけで、あるにはあるのか。万物は法則に貫かれているのか。認識上のカオスにもはっきりとした法則が見出されることがありえるのか。カオスがカオスであるためには法則があってはならない。認識内においてその法則が見出せないことから、存在はカオスであると捉えるが、それは認識内部で起こっていることに過ぎない。存在はそのようにありのままにある。ありのままにある何かそれ自体に法則がないまま動くことがあるのか。存在の一切は形式的なのではないか。姿だけあって、形のないものはないのではないか。

 

その273

 エネルギーとは、それ自体であり、かつ、その外部への働きかけである。エネルギーはそれ自体が運動であるが、かつ、運動の原因にもなる。エネルギーだけがあっても、それは動かない可能性がある。あるエネルギーはそれが反応することで、エネルギーの役割をはたす。何にでも反応するわけではない。あるエネルギーは相応の対応関係にある。

 意図的にエネルギーを送り込んで動くものはそれ自体の反応においては自然である。そうなるようになっていることとは自然ではないか。人間がやったからといってもそれですべてが不自然というのではない。人間のやっていることは自然でははないか。万物は自然現象のうちにあるのではないか。あるがままある。起こっていることが起こっている。どこまでいっても自然にそう起こっているのではないか。それは全てが必然であるとは言えない。必然であることと自然であることは違う。起こるべくして起こることによって存在のすべてができあがっているなら、それは決定論だが、自然に起こっていることとは、存在相互の反応において、起こるべくして起こることが起こっているのであり、起こらないことは起こらないことを意味する。起こっていることの裏には起こらないことがある。何が起こっているかばかりに着目することなく、何が起こっていないかにも着目したい。起こっていることの総体が存在だが、その裏には起こっていないこと、起こり得ないことがある。何かが起こらなかったことで起こったことがある。何かが起こるのはその他を拒絶するからではないか。他の可能性を拒絶することで、起こることがおこっているのではないか。そうなることはそうならない可能性もあったがゆえか。そうならないからそうなったのか。どうなるか。それは現象が初めから決まっているのか。存在の要素はいくつもある。そのうちの反応関係が複数あるとき、いずれかに落ち着くことになるか、複合的な反応となる。単一と思われる現象を紐解いていくと、その原因はその外部にもある。そう考えると、単一さは否定される。起こったことそれ自体が単一と考えられる現象であっても、その原因は複合的である。

 つまり、起こったことだけで存在はできあがっているのではないのかもしれない。私たちに内在する精神が存在の一部であり、かつそれがいかに作動し存在のうちにあるかを考えたとき、起こっていることがそれほど単純ではなくなる。精神内部で起こっていることは計り知れないほどの複雑さにある。結果的にアウトプットされた言葉が精神のすべてではないのは言うまでもない。捉えきれない複雑さがこの存在のうちにある精神には宿されているのではないか。それは、脳内の物質的な現象のすべてを含む。それだけではない。存在がいかにあるかが精神との関わりにある。精神は存在について、その意味を捉えようとする。いかなる意味があるか、それは捉えようもないほどの複雑さにある存在に対峙する私たちの精神にその底はない。行きている間に磨き上げられる。そのうちにあることが言葉になる。その言葉がすべてではない。

その272

 言葉になっていなくとも、起こっていることがある。あるというか、ほぼすべてが言葉になることなく、起こっている。起こっている何かのなかに言葉がある。言葉があるから起こっているのではないのは言うまでもない。起こっていることが起こっている中で、そのうちの いずれかを言葉に置き換える。言葉になったことは言葉として起こったことであり、言葉に置き換えたことの原型ではない。起こっていることがそのまま言葉になることはない。

 言葉とは何か。意味を生む機材か。意味なら言葉がなくても存在する。言葉の意味が存在をあらしめているのではない。言葉がなくても何かがあるのは同然だ。存在はただそれがあればいいというわけにはいかない。生き物にとっては生きていくための環境がいる。そういった都合がある。ただあるだけでよいことにはならない。ただあるだけでないことから、それぞれに意味がある。意味があることで何かがあるのではないか。意味がこの存在をあらしめ、かつ、個別具体的に分けているのではないか。意味がなければ何もない。何もないとき、一切の意味がない。意味があり、かつそれが変容することで、存在がある。存在はそれが動くことでその成立となる。動くからある。動かないのであれば、その存在は実在し得ない。すでにそれではないことがある。すでにそれではないからあるのか。つねにそれであれば、その存在は完全なる停止にある。絶対停止することで何かがあるとは考え難い。絶対停止とはエネルギーゼロである。エネルギーゼロで何かが実在することがあるとは考え難い。わずかにでもエネルギーが込められていることでそれ自体がある。エネルギーを内在するからそれはある。それがあるから、エネルギーなのか。エネルギーがあるから、それがあるのか。あることからもたらされるのがエネルギーなのか。意味としてのエネルギーがあるから何かがあるのではないか。意味とはエネルギーではないか。変容する意味がエネルギーなのではないか。

 

その271

 どこにもない何か。それが可能性として考えられたとき、頭の中にそれはある。頭のなかにある状況において、それが外部化されないことがある。言葉にならずとも、考えられた痕跡が頭のなかにある可能性がある。はっきりとしないが、あるかもしれないものがある。可能性について考慮しなければ、存在のあり様の全貌は掴めない。それが言葉になっていなくとも、ある可能性があることがある。あればそれはあるのだから、いかにあろうとそれは関係ない。あることの模索を続けていくことで、やがては絶対にないことが発見されるのだろうか。そのなさとは可能性ゼロのことである。可能性として考えられることが無限にある限り、何かが絶対にないとは言い難い。存在とは存在がどこまでいかに広がっているかを知ったうえでないと、あるなしについて判断することはできない。わからないが先にある。わからないがあるかもしれない。すべてにおいて、それが現にいま確認されていなくても、わからないがあるかもしれないのではないか。

 

その270

 無限とは何か。認識を超えた実在でも、その有限にある可能性がある。認識の外がどうなっているか、わからないとき、存在はその無限なのか有限なのかはっきりとさせることができない。しかし、無限といった観念からイメージされることが実在であるとは考え難い。考え難いのは認識の問題である。認識がどうあろうと、そうあるものはそうある。そのようにあることが土台となって、私たちもどこかにいることができている。そうあることが認識されずとも、それはそのようにある。仮にそうあることとは違う、誤った認識を持っていたとしても、誰かが存在することに問題はない。まったくないとは言い切れずとも、地球が宇宙の中心であると考えていて、それはそれで生きていた時代がある。その結果として、何らかの不具合があったかもしれないが、そもそも、存在のすべてが理解されることがないうえに、間違った認識をもつことはいまでもたぶんにあるのだから、そのようにあるはずのせかいのすべてがはっきりと認識されていなくとも、それは当然のことであり、問題といえば問題だが、問題ではないと言えなくもない。

 無限は実在しないと考えたとき、それは際限なく何かがあることが否定される。数であっても、そのイメージとしての無限とは別に実質的には、存在内におけるその有限にあるのではないか。何かがあるのは、存在が有限だからではないか。限りある存在の広がりをもとにするからこそ、何かがその有限としてあるのではないか。万物には終わりが設定されているのではないか。それゆえに始まりがある。始まりのない存在は存在しえないと考えることができるが、かりに存在に始まりがないのであれば、永遠の実在について考えなければならなくなる。始まりだけがなくて、終わりがあることがあり得るだろうか。終わりがなければ、その存在は永遠か。永遠か否かをどうやって判断するのか。永遠は観測できない。それゆえ、永遠は実在しないとは言い切れないが、少なくとも認識外存在であることは明らかである。存在するとしても、それは認識の外にしかない。あるのはないのか、それは認識できない。無限もまた認識できない、認識外存在である。

 認識できないのはその実質であって、観念としての無限や永遠はその使用も可能であり、かつ、そのイメージなら持つことができる。言葉にしてどんなことなのか説明することができるかもしれないが、やはり、その実質を体感的に認識することはどうやってもできない。体感できないが、頭の中にはある。頭の中にあることは存在の一部であり、存在しないとは言えない。存在するか、存在しないか。それは何かしらとしてあるかどうかであり、何かしらとは物質ではなくとも、あるならある。私たちがどれほどの妄想を抱いて非現実を思っても、その妄想はしっかりと実在していることである。あるいは物かもしれない。人が何を思おうと、思ったことは事実であり、その痕跡が確かにある。思ったとはっきり言葉になって認識されないことであっても、何かをはっきり思ったことの原因になっているなら、思っていないと感じられることや、言葉になっていないこともまた、ある存在の結果を生み出す原因になった可能性があるとして、それは実在である。自身でも感じ得ていないことが身体内部で起こっている。それら起こっていることはすべて現実であり、存在しているのである。何かがあるか、ないか。起こっていることはすべて存在しているのであり、頭のなかを含め、存在の流れのなかにおいて一切見出せない何かは確かにどこにもないのかもしれない。そう言い切っていいのかもしれない。

 

その269

 関係のない何かがある。存在する何もがその関連にあるのではないのではないか。何かに焦点を絞ったとき、その何かに関与していることがいくつもあるのだろうが、存在の地平には、関わり合っている状況と関わり合っていない状況が同時にあるのではないか。あるりんごがテーブルの上にある。そのりんごの実在にとって意味のある何かがありつつも、そのりんごにとって意味のない何かが存在の地平にある。意味のあることと意味のないことが同一の地平にあると考えられるのは、何かそれ自体に着目するからではないか。何かを認識しようとするから関係のあるなしが生じるのではないか。認識の一切を放棄したとき、そこで起こることは何か。認識といった形式を設定することがもたらす存在の関係性とは別の存在のあり方がそこにはあるのではないか。いかにあるか、それは認識しようとしないから、明らかではないのか。それとも、認識しようとしなくとも、そのあり方が理解されるのか。そんなはずなない。認識の行為が実在しないところに理解はない。そのとき、その理解は形式的に為らざるをえないのではないか。形式添った認識しか実在しないとき、非形式的な実在は、それが存在しているかもしれないとしても、理解されない。存在のあり方を筋道を立てて理解することでしか、理解とならないとき、私たちが知りうるのは、存在のおける筋道であり、筋道のない存在の仕方は理解されない。存在がいかにあるか、それは認識のうちにあることばかりではないのかもしれないが、認識の外にでることができない私たちは私たちの認識の機能の内側で認識を行うしかない。認識の内側で行われた認識はその内側に閉ざされている。存在の圧倒的な広がりに対して行われる認識はその認識の内側でのできことであり、それ以上の広がりにあるはずの存在のあり方について、知り得ないことはそれが何かをまったく知り得ることなく、ただひたすらそれはそれ自体として存在している。私たちにはまったく知られることのない存在の仕方があるはずだが、そのことがいかなることなのか、それをまったく知り得ない。知ろうとすることのない何かがある。確かに実在しているはずの何かについて、どれほどの好奇心があっても到達しない存在のあり方があるのではないか。

 

その268

 存在はカオスに存在するわけではないのではないか。私たちの認識においてカオスといった現象が起こるのではないか。存在はその形式にある。現在は少なくともそうしたあり方にある。形式を失った存在の仕方がカオスである。何かしらがそのようにあるとき、そのあり方において、一切の形式がないのであれば、それはいかにあるのか。完全なる流れだろうか。流れもまた形式をもつと考えられる。形式をもつことなく存在することはあり得るかもしれないが、わたしたちとはその認識において形式的にしかなしえないのであれば、あらゆる認識は形式的に為らざるをえない。何かを知るとき、形式的でないことも知りうるだろうか。それはいかにして成り立つのか。固定点を一切持たない何か。それは実在するだろうか。あらゆる存在が解き放たれているなら、そこには一切の固定点はない。ただある。いかにあるか、それは理解されない。つまり、完全なるカオスとはその理解を超えた実在である。それがそのようにあることをそのようにあるように認識することはできない。現にある存在の形式的な部分とは別に実際に存在のあり方としてカオスが現に実在している可能性はゼロではない。認識上のカオスとは別の意味でのカオスが実際に存在においてある。認識上のカオスがAなら、実在する存在のカオスは非Aであり、Bか何かである。認識上のカオスとは、捉え方においてカオスなのであり、そこには少しでも形式がある。形式となっていない部分もまた存在の仕方としては形式なのではないか。固定点を持たない何かがあるとは今日日の存在においては考え難い。固定点を元に、何かがある。何もかもが固定点をもとにした実在なのではないか。実際の存在においてカオスの要素があるなら、存在はしているがそれ自体には固定点がないことになる。それはいかに実在可能か。私たちの認識内には実在しえないのではないか。認識の外にはあるのかもしれないが、私たちは果たして認識の外にでることができるだろうか。存在が形式的であり、かつ、非形式的であるとき、非形式的の部分は私たちにとって透明であると考えられる。実際にそれはそのようにあるのかもしれない。しかし、永遠にそうなのかもしれないとしか言えないのではないか。あり得るかもしれないが、それ以上、いかに捉えようとすれば、形式をもたない実在を把握できるのか。私たちは私たちの認識機能の限界にある。それは常にそうであるが、その拡張や超越はこの先どのようになされていくのか。