哲学日記

ラビリンス

その208

 因果で紐解いていくと、始まりがどうしても気になるが、原初の個物の始まりが、存在の流れの規定にあるとするとき、その規定とは、働いた力のことであり、では力とは何か。秩序を作り出す力と考えられるが、秩序を作り出す力とは何か。ばらばらだった存在の流れのなかに、秩序を作り出す力が働いたと考えた時、そういった力が存在の流れのうちにできたとなるが、それは特殊なことではなく、存在の流れのなかで起こった平凡な事実なのかもしれない。突然起こることはない。変異したとしても、そこに時空の断絶はない。

その207

 規定された領域がりんごである。存在の流れの中にあるりんごは存在を規定した存在である。りんごのみならず、それが個物である限り、存在の流れのうちで、なんらかの力を加えて規定した結実として実在する。なぜ規定可能だったのか。りんごはそのうちなる力が働いて存在を規定したのか。存在の流れの中から生じた力によりりんごは規定されたのか。在るのはまず先に存在の流れであり、仮のそれが一切きてされていない状況であるとするとき、原初の個物はいかに生じたのか。一切の規定がなかった存在の流れのなかに生じた原初の個物は存在の流れのなかにあった力がもとになって生じたと考えるなら、それ以降の個物もまたその内的な動因は否定される。つまり、個物はその外部に依存した結果、生じていく。その連鎖がある。りんごからりんごへ受け継がれていくのか。りんごのみならず、雨が降るのもまた雨そのものに原因がある以前に、雨の外部に雨にとっての原初的な原因があるのではないか。原初の個物が存在の流れの中から生じたように、雨もまた存在の流れのなかから生じた力により規定された結果、雨となったのではないか。雨の原因は雨にもあるが、それは始まりではない。

 

その206

 枠組みとはパターンのことである。繰り返されるパターンがある。しかし、パターンだけが繰り返されただけでは、存在は動かない。動的な存在における同一のパターンとは何か。すべては異なっていると考えられる存在のうちになぜ同一のパターンが実在するのか。それはりんごをりんごと呼ぶこととは違う。物質レベルでの反復である。翻って、りんごがいくつもりんごとして出現することはパターンの繰り返しだ。その意味とは何か。大雑把に実在するパターンとは何か。存在は領域により設定される。存在の広がりを規定する領域がある。

 

 

その205

 リアルタイムで何が起こっているかを具に知ることはない。知っているのは、枠組みで、現象として何がどう起こるかである。その意味で、存在は反復する。反復する枠組みのなかで生かされているのであり、その細部は異なっている。一度きりしか起こらないことが何度でも起こるとは、矛盾にあるが、それは表現の限界である。なぜ矛盾が存在するのかは、言語表現上の限界であり、かつ、合理的に把握しようとすることで生じる限界である。把握されなければ存在は矛盾しない。把握されない存在がそれでも矛盾することとは何か。反する現象が一個の存在のうちにあるわけではない。存在の流れは一通りであり、一回しか起こらないことの積み重ねにより構築される存在は二度と蘇ることはない。それでもある現象が復活するなら、それは枠組みが復活したことを意味する。かつてのあり方がそのまま再現されたのではない。

その204

 雨粒が一滴地面に落ちたときに起こっていることは何か。そもそもこういった記述が指し示していることとは何か。その全体はあるか。物理的な時空のどこを指し示しているのか。それは定まるのか。言語で表現されたことの内側で起こっていることを具に把握することは可能か。言語で表現されたことの対象はあるとしても、それがいかなる具体にあるか、そのすべては明らかにならない。起こっている現象が解明されたとしても、リアルタイムにそのすべてが分かるわけではないので、私たちの認識には常に限界がある。起こっていることの関係性のすべてが存在を構成しているにも関わらず、そのうちのほぼすべてを知らないのだ。

その203

 私たちはその主体となり、存在へと働きかけをするが、意図的なそれとは別に、ただ存在することが存在に対して与える影響があるはずだ。田畑を切り開くこととは違って、意図的ではない企てが無意識に行われている可能性はつねにある。存在の広がりをすべて情報としたとき、情報の変数への影響がある。呼吸することなくして生きていけないが、呼吸は無意識に行われていることがほとんどである。意図的な企てではないが、ひとが呼吸をすることが存在にとってどんな意味をもつか。関係性のうちにある反応は意図的でもあり、意図的でもない。意図的なこともまた意図した結果ばかりを生むのではない。意図的に行ったことから意図しなかった結果がもたらされるもので、結果的に存在にどんな意味があったか、そのすべてを把握することはできないのではないか。しかし、実際に反応はしているうえに、その反応を結果を受けたのちに新しい存在のあり方がある。何かが起こっているのかその全容を把握することはできない。起こっていることは確かに起こっているはずだが、どんなことが起こっているのか、そのすべてを把握することができないのは、すべてを把握したといった確証を得ることができないと考えることが妥当に思えてていけないからだ。

その202

 考えていることが存在の流れに沿っていないことがないか。視覚で捉えた存在のことを考えるなら、存在の流れのうちに思考があると考えられるが、視覚で捉えていることと完全に異なったことを考えることが頻繁にある。そのとき、考えている主体である自己は存在の流れのうちにあるものの、そのうちにある思考は存在の流れに沿っていないことになる。

 先にあるのは自己の生存である。自己の生存はその外部との連続にある。存在できるのは自己の外部が自己に適していることが原因である。実存的に自己の外部は必須の条件となるが、自己の根拠といわれもする思考する自己は、実際に思考するときにおいてその外部と不連続にある。思考の運動は自己のうちに閉じているようでいて、しかし、思考の内容は存在との関わりにある。関わりにあるとしても、その思考がなされているときにその場と同期するのではないことが多い。その場のことを考えるときがあれば、その場と関係ないことを考えることがある。

 いかなる思考も存在の流れに含まれていて、考えるべくして考えていると捉えるなら、一切の思考な流れのうちにある。視覚では別の状況を捉えていても、思考は存在の流れに従っていると考えても問題はないのかもしれない。思考内容はそれまでに経験したことやそれまでの記憶が原因となっているのだから、存在の流れに沿っているということもできる。

 存在の流れに沿っていないことなどひとつもないのか。そう考えるなら、存在のあり方がカオスの様相を呈することになる。つまり、存在の流れ自体が不連続で、捉えようのない姿であることを意味する。そのありのままを想起するならすべては連続していると捉えてもいいのかもしれないが、いかようにも私たちは認識するしかないのであり、認識の存在を認めてしまうことはつまり、存在が不連続にある。少なくとも、そういった現実が存在の流れのうちに私たちの精神の存在を通して実在していると考えられる。

 私たちの存在は存在の一部であることはどうやっても否定できないことであり、いかに私たちが実存しているかを捉えることは存在がいかにあるかの部分的な認識として欠かすことができない。私たち自身について知ることなく、存在について知ることができない。存在の外部がしきりに精査され、そのこと自体になんら問題はないが、存在は私たちによって認識されることでその在り方がはっきりとするのであれば、認識そのもののあり方を理解することが求められる。私たちの認識それ自体は存在にとっていかなる現象か。私たちが存在を認識することで存在にどんな変化が表れているのか。