その699

この世界を動かしているのは意味だ。意味が運動を生んでいる。どのように動くか。それは意味による。意味の変化とは運動のことであり、この世界の変化がどうあるか。いや、変化そのものが今現在における世界だ。世界は今現在における意味として、それらはいかにある。現在だけしか世界がないとき、この世界はひたすらに今現在における流転となる。今現在それ自体は固定されたものではない。流転の状態にある。万物流転とは今現在におけるひたすらなる流転ではないか。万物は常に今現在にしかないとき、過去や未来といった表現が内包するものは頭の中における話でしかない。頭の中にあるイメージはそれ自体として存在はしているが、実際においてそれは物質的には存在しない。過去や未来が物質的に存在すると考えたとき、そうなると今現在が動かない。なぜ何かは動き、その流転にあるのか。それは存在を動的にするだけの余白が常にあるからではないか。何かが動くためにはそのための空間がいる。何もそこにはない場がわずかにでもあることで存在は動くことができるのではないか。仮に、過去も未来も物質的に存在してしまえば、何かが動くための余白がなくなってしまわないか。過去はあった。未来もあるだろう。しかし、実際には存在しない。それ故に、何かがあるとは今現在のみにおいてひたすらに動いていることを意味しないか。定まってしまった過去と接してしまったとき、今現在は動かない。過去は決定された事実であり、そうした決定された事実と連続して現在が動きながら実在することは考え難い。また、過去が存在するなら、現在と連続せずに存在していることも考え難い。

その698

 意味がこの世界を作っているのではないか。物質はそのすべてが意味によって構成されていて、かつ、物質ではない意味もまた実在し、その物質ではない意味もまた世界の構成に関わっている。物質と非物質、その両方における意味が相互に関わりながらこの世界を作っている。

その697

あるとは何か。物質だけではないのではないか。精神が生み出す意味もまたこの世界の実在となり、かつ、物質にも影響を与える。物質が精神が生む意味に影響を与えることもある。実在するが全く見えずとも、あるものはある。存在すれば、それは非物質的な意味もまたある。

その696

世界の全体は認識されない。世界はその全体としてある。世界の全体とは存在する限りの全てを含む。あるかないか。物質ではなくとも、世界の運動に変化を与える何かがある。我々の精神内部で思考されていることが物質として実在せずとも、世界の運動に変化を与える。であれば、あるとは何か。物質だけではないことになる。精神内存在もまた実在の一部であり、それはこの世界の現象に影響を与える。目には見えずとも、触れ得ぬとも、それがあって、世界の運動に影響を与えている。

その695

 無は永遠との関連にある。無が実在するというのであれば、それは永遠に実在しなければならない。永遠に実在しない無は限定的無だが、それは無だろうか。無とはその純粋性にある。ゼロのことが無であり、ゼロは数の中でも最も純粋なのではないか。1は1であることで純粋だが、1は何かの1である。何かとはいくつもある、その1である。この世界には無限個のりんごは実在しない。実在するリンゴの数は有限だ。今あるりんごが仮に1000億個とする。そうしたように、何かとは常に実際において有限個しかない。そんな時、数がある。数は何かの1であり、2であるが、1は実在する何かの全てに当てはまるが、2となれば、もはや二個実在しない何かもあり、1000であれば、1000という数があっても、実在する個体のいずれかは当てはまらない。1000個は存在しない。


 数は時間さえあれば、増え続ける。永遠に時間が経過していく世界では数は無限に増えていく。終わりがない。終わりのなさは観測できない。世界は永遠かどうかそれは分からない。永遠に分からない。どれだけの時間が費やされても、世界が永遠かどうかは永遠に分からない。世界が終わった瞬間に世界はその終わりを知らない。

その694

 運動を意味することのない何か。それは無を意味する。無は運動をしない。存在しない。存在不能。存在不能の何かとは何でもない。何でもない何かとは永遠の不在のことだ。永遠の不在とは無のことだ。ただとはいえ、この世界では常にあることだけがあって、それはそのように起こっている。起こらないことは起こらない。起こりうると考えられるが起こらないこと。一切それについて知らないが、それが起こらないこと。つまり、精神内存在における無と、精神外存在における無がある。精神内で考えることができるがそれは実際には起こらない。存在しない。つまり、無だ。一方で、精神外では単に起こることだけが起こっていき、起こらないことは無として、起こることのないこと、それが永遠に起こらないのであれば、それは無だ。無はそれが無である限り、永遠に無でなければならない。運動として発生しない何かは無だ。永遠に運動として発生することのない何か。運動が発生するとはどんなことか。新しい現象が起こることでもある。現象とは運動の姿のことだ。例えば、一個のりんごは運動の姿を表現しているのではないか。運動に姿を与えるのがそれぞれの個体の意義ではないか。この世界は運動で埋め尽くされている。それら運動が姿を獲得し、りんごとなり、バナナとなる。ではなぜそれらの運動の姿は生じたのか。

 

その693

  解は全て運動を表す。運動のあり方を表す。解は構造化された運動を表す。我々にとって構造として現れる運動の実在が解を実在させている。この世界に秘められた解はなぜそれが解として実在するのかとなれば、それはまずこの世界には、我々が認識可能な姿で構造化された運動があるからだ。解の成立は我々に認識可能な姿で構造化された運動があることを意味している。