その339

 非現実的なことであっても、可能性としてはゼロではないことがある。想像力を抱けば、なんだってありに思えなくもない。突然世界が変わる。そんなことが起こり得ないと決定づける根拠はない。そのとき、妄想は妄想でなくなる可能性がある。

 ある可能性があるとき、その可能性は現実の一部を構成するが、実際にそれが起こるかどうかは定かではない。起こったことから明らかになっていく。起こる可能性があることはいまだ起こっていないが起こるかもしれない。起こるかもしれないことのうちで何かが起これば、その起こったことに関連して何かが起こらない。何かが起こると同時に何かが消滅したと考えられる。起こるべきことがあった。起こったことがあったので、起こるべきことが起こらなかった。つまり、現れた世界の背後には消え去った何かが潜んでいる。潜んでいるかもしれないが、それは実在しない。ほんとうに実在しないかどうか、それは確認できない。確認できないものがないわけではない。確認できないが存在するものがある可能性はある。可能性だけがあって、実際にはどうか、永遠にわからないことがあるのかもしれない。知りうる領域を拡大していった先にある完全性とは何か。完全な認識とは何か。

その338

 妄想が妄想なのかどうか、その判断のためには情報がいる。情報が不足しているから妄想と捉えられることがある。情報があれば、妄想と思われたことでも、妄想ではない現実になる。現在において妄想であっても、1000年後には現実のことがあるだろうに、妄想か否かの判断は情報に委ねられているのであり、かつ、私たちの理解力にもまた委ねられているのである。理解されたことが増えていけば、妄想が現実となる可能性がある。妄想かどうかの境目はどこにあるのか。どこにもないのかもしれない。境目それ自体が妄想が生む現象ではないか。確かに境目はあるが、それ自体が私たちが妄想的である証左ではないか。

その337

 あるのか、ないのか。頭の中ではないところにあるか、ないか。人間がいなくても無限はあるのだろうか。人間だけが無限を感じているのかどうか。他の生命であっても、際限のなさを感じていたりするものだろうか。それは脳内の構造に依存する現象であれば、いつしか解明されるかもしれない。なぜ人間はありもしない無限を感じることができるのか。人間のみならず、他の生命であっても、無限を感じることがあるなら、それは脳内の構造に由来したものかもしれない。

 脳が生み出したことはそのまま現実として捉えられるが、いったん現実と捉えられたことが頭の中だけのことで、頭の外にだしてそのままあてはめても具合が悪いことはないだろうか。無限を感じる心の実在は否定しないとしても、それは同じく神を感じる心の実在と同一の心のあり方、あるいは、同一の脳内の構造のあり方を指し示していないだろうか。一言でいうならば、脳内において生じる妄想が無限や神を生んだのではないか。妄想を排すれば、あるのはただひたすらなる現実である。現実とは何か。それは妄想的な人間を含むが、人間の妄想は確かに現実としても、非実質的な現実はそのすべてが妄想として、架空の話と捉えるようにしたほうがいいのではないか。それとも人間には特殊な力が備わっていて、非実質的なことも確かに起こりうる現象なのか。妄想は妄想ではないのか。妄想を妄想と決めつけるほうが妄想的なのだろうか。

その336

 無限は認識可能だろうか。頭の中や記号などでそのイメージを具現化することがあっても、頭の中や記号ではない実際の無限を捉えることはできるのか。果てのなさを無限としたとき、果てのないものをどうやって認識することが可能か。認識とは果てがあるから可能なのではないか。

 無限を感じることがあるかもしれない。確かに、果てしなく続くその動きをイメージし、実際にそれがあるような感覚を得ることがある。限界を取っ払ったうえで、何かがある感覚。しかし、それだとそれは何かであることが可能だろうか。何かではない存在がどこかにあると考えることができても、それを認識することができないなら、それがあるとは認められない。単に、頭の中でこしらえられたイメージに過ぎないとしても、そう考えた結果がたしかに存在にとして実在する事実は認めざるを得ない。ただそれでも、その無限を指し示して認識することができない。果てのなさとは何か。終わりがあるから何かがある。その枠組みがあることで何かがある。枠組みには果てがある。果てのなさそれ自体が実在するだろうか。存在はつねに何かとしてしか実在しないのではないか。何でもないものが実在するだろうか。ただの流れのようなものであっても、それは何かであり、その果がある。やがて消えるものには果てがある。永遠に消えることのない何かがあるならそれは無限だろうが、無限かも知れないものを実際に無限かどうか確かめることはできない。無限それ自体にとってしか無限を感じることができないなら、人間が無限と感じているその感覚は妄想に過ぎないのかもしれない。

 

その335

 起こることしか起こらない。存在のもたらす反応にはその限りがある。そのことを存在におけるシステムと考えられないか。存在はそのシステムのうちにあり、それゆえにその限りがある。ある反応が起こるとき、その反応がもたらす現象の把握における数値は無限ではない。何かがあることはつねにその限りにおいてである。限りにおいてあるからこそ、それは存在する。存在の運動は規定された運動である。その規定とは、それがシステムのうちにあることを意味する。システム内存在である何もが無限の数を抱え込むことはない。果てはある。だからりんごがある。水が流れる。すべては時空間におけるシステムではないか。そうした存在を規定しようとして働く数があるなら、それは有限でしかない。頭のなかにある無限が実際に実在することはない。頭の中にあるといっても、その無限を取り出して眺めることはできない。観察することのできない無限は永遠に実在しない。

 

その334

 事実が通用するためには、その適用範囲の性質に変化があってはならない。事実が事実であるためにはその事実が生まれたときの性質と同一の世界が続くことが求められる。すべての事実はだから、世界内存在である。ある世界において起こることができることも別の性質の世界では起こらないことが考えられるが、性質が異なっていても、存在するといった一点において同一さがあることから、それぞれ異なった世界にいずれにおいてでも当てはまる事実があるなら、それこそまさに普遍的だと考えられないか。

その333

 あるものがなくなる瞬間がある。完全になくなった瞬間がいつなのか、それは認識外にあるのかもしれない。炎が完全に消えた瞬間は、私たちの認識の中間領域にある。認識とはその広がりにあり、それは中間領域に属する。ではそれは、何の中間なのか。あることと、ないことか。あることとないことの中間において実在する私たちの認識は、あるのか、ないのか、そのいずれとしてしか把握できないうえに、あるのか、ないのかは、自然の側に実際にあるのみで、それは認識を超えている。認識を超えた瞬間を捉えようとするとき、私たちはいずれに属するのでもない中間領域を設定する必要がある。観察領域といってもいいのかもしれない。観察することで認識されることは、その限界にある。あるようでいてないし、ないようでいてある領域を設定しなければ、認識に置き換えることができないが、それではっきりと認識したことにはならないが、認識におけるプロセスとして、中間領域は存在することがあってもよい。結果的に何を認識するか。いかに認識できるか。最終的には、中間を排したいずれかの事実を捉えなければならない。それは、ないならない、あるならいかにあるか、それを完全に認識し尽くしたいところだが、認識の完全性をいかに証明するか、その問いがつねについてまわる。そのことをどうするか、究極の答えはないのではないか。