その93

 ゼロとは、まったくないを意味し、その存在がどこにも見受けられないことを、存在論においては言うのではないか。私たちによる想像すらもなされたことのない何かは私たちからしても、ひとつとして知られていない上に、存在のどこを探してもない。私たちに知られていない存在領域は当然ある。私たちに知られていない存在領域にも実在しない何かとは、私たちには知られない。知られないことを私たちは知り得ない。そういった事実があることは知っている。

 存在は無限に連なっているのではなく、ある契機をもとにさらに拡張している可能性がある。無限に連なっているといった意味とは、運動が無限に連なっていくだけで、存在が果てしなく実在するのではない。果てしなく続いていくとしても、それは有限のうちでの話ではないか。絶えざる運動があることは、存在がありとあらゆる現象を含んでいることを意味しない。存在の流れの中で起こることは限定的だ。流転をつづる万物は姿を変える。姿を変えていくことには終わりがないとしても、存在する何もが無限にあるのではない。存在は起こったことをもとに姿を変えていくとしたとき、存在は常に限定的に実在する。限定性のなかで姿を変えていく存在は果てしない運動を秘めているとしても、りんごが他のものになるように、何かといった限定性をもとに新しい姿となっている。

 存在の流れの中に含まれない何かがあれば、それはゼロだと言えまいか。無ともいえるゼロは、どこを探しても現れることのない事実であるが、どんな誰かも考え付かない何かも含め、存在の膨らみのなかのどこにもない。そのなさはどうやっても見出せない無であることをゼロとすべきで、存在するもがその場にないからといって、それでそれをゼロと捉えることは誤った認識をもつ契機とならないか。その場にないりんごはマイナスで表現すべきではないか。存在の流れの一切を情報としたとき、あらゆる場は情報のあり方で埋め尽くされており、プラスかマイナスでそれぞれの場における何かしらの実態を把握するべきではないか。