その97

 一個のりんごをある瞬間に見たとき、その全体は見えない。私たちではなく、機械などの装置でも、それは私たちと同じ主となる状況から脱することはできず、一個のりんごの全体はいかなる主体からも見出すことはできない。仮に、一個のりんごを止めたとしても、その全体をいかにして確認できるか。一個のりんごの全体とは、その内奥から皮膜までとしたとしても、その一部始終をいっしゅんのうちに観察することのできる主体はいない。そのものそれ自体であっても、その一部始終をなんらかの把握にあるかどうかは、定かではないのは、私たちであっても、その身体の運動がいかに起こっているかを知らないで生きている。みずからが生きていることは知っていても、それがいかに成り立っているかを知らない。知っていることはあるが、身体内部で起こっていることのほとんどを知らない。構造的な理解はあっても、それがリアルにどう作用しているかは、まったく感知していないといっても過言ではない。

 外部からの観察で知りえない全体は、その内部においても、同様のことがいえる。内部も外部への知られざる実態をいかなる主体からしても知り得ることがない。認識の不完全さは、存在することへの不都合とはならない。存在はしているが、その実質を把握していないことには、関係のなさがある。実質の把握がなくても存在は可能である。いかに存在しているかはそのままそれが存在していることが指し示しているのであり、そのいかなるかの外部からの把握の不完全さは問題とならない。知らないからといって、りんごの存在に不都合はない。私たちの実存も、そのありようを詳に知らないからといって、大きな問題とはならない。知っているほうがいいことはあるが、知っているからといっても、それがその均衡により成立しているとき、対処する方途は、一通りではない。総合的な関わり方が重要だとしても、総合性自体の実在に疑いがある。