その80

 りんごの虚無がりんごの本来の姿だとしても、いかなる主体からしても、りんごの虚無は見えてこない。主体からの把握は主体により主体化される。色彩は主体により与えられたものであるが、対象の物質性との関係性それ自体により生じるのが対象を捉えたときに浮かび上がる色彩である。私たちの意識に浮かび上がる色彩は私たちと対象のあいだに浮かんだイメージである。いかなる関係性をも除外したときに浮かび上がる色彩は存在しない。

 認識の存在とは何か。なぜ認識が存在するのか。認識は認識対象の実在により生じる現象であり、私たちが主体性を発揮すればそれで認識が存在するのではない。認識とは存在のなかほどにおいて、何かそれ自体に焦点を絞ることで生じる現象である。断片を捉えることで生じるのが認識であり、存在の広がりにおいてピントを絞ったとき理解される何かとは、存在の広がりにおいていかなる実在なのか。絵画をみたとき、部分だけをみて分かることがあるかもしれないが、その部分だけをみてわかったことがどれだけ全体に対しての意味をもつか。

 万物を貫く何かがあるのか。あれば、りんごを一個観察し尽くせば、万物を貫く何かに出会うことが可能だ。あらゆる存在に実在する何かがあることを確かめるためには万物を観察しなければならない。存在の果てまでたどり着くことのできない私たちが万物に貫く何かを確信をもって把握することは不可能ではないか。可能性ならある。ある物質がいかなる存在においても共通に内在化されていると、観察を通じて確信に迫っていくことは可能であり、現存する私たちの認識到達領域における事実としてなら、把握可能であるが、存在がそれ以上の広がりをもつき、さらなる観察が必要である。そのうち、万物を貫くと考えられていた実在が垣間見れないような物質に出会うなら、異なったフェーズの実在界に到達した可能性というか、そういった認識をもつ必要があるのかもしれない。存在はそれが在れば存在だが、その性質に違いにより、実在界がそれぞれ分かれて在ると考えられる。呼び名は知らないが、物理的な性質に着目したとき、これはどう考えても、これまでの実在とは異なったあり様だといった発見があるとき、私たちはその存在をどう捉えるだろうか。