2023-01-01から1年間の記事一覧

その622

存在するそのすべてのすべてがいかにあるか、明らかとなるはずはない。いや、存在するものとは実際において、いかにあるのか。かつて存在していたものは今現在においてはない。いや、ないのかもしれないし、あるのかもしれない。どこにあるかはっきりしなく…

その621

存在のぜんぼうを理解することができないのは、理解したか、できていないか、その判断が永遠にできないからだ。実在はあるようにあるだけだが、そのありようについては、我々が決定づけることはできない。

その620

世界がどこまで開かれているのか、それは知らない。そもそもにおいて、世界それ自体の物理的中心はいわゆるところの私ではない。もちろん、私かもしれないが、その可能性は限りなく低い。というか、可能性はゼロではないか。生きている誰かがこの世界の中心…

その619

我々人類は誰もが世界に埋め込まれた実在であり、つまりは存在の一部である。我々は誰もが単に存在の一部であるということに過ぎないのではないか。存在のすべてと関係しているのではないのではないか。ある個人と関係のある物事と関係のない物事がある。そ…

その618

認識は閉じていることで成立するが、認識内容は認識内において閉じていないはずだ。閉じているから成立するものが閉じていないこととは何か。認識はその成立にあることで実在している。その成立のためには、何がどうなっていればいいのか。つまり、認識内で…

その617

世界を認識したその認識がなぜ成立するのか。認識は認識内において完結している。つまり、閉じているのだ。すべての認識は閉じている。閉じているから具体的にある。それはりんご一個であっても、そうではないか。閉じているから具体的にある。むろん、閉じ…

その616

過去の世界と現在の世界は実質的には分かれていないはずだ。しかしなぜか、過去の世界があって、現在の世界がある。過去の世界とは、しかし、認識内の実在でありながら、認識外の実在でもある。世界とはそもそも認識内に閉ざされたものではない。世界の広が…

その615

一瞬で世界のすべてが判明する数式があるなら、それは万物に対する数式となるが、それは実在するだろうか。あるりんごであっても、その一瞬をいかに認識可能か。あるりんごの一瞬は一瞬しかない。その一瞬を逃してしまえば、その一瞬はもはや再現できない。…

その614

たとえば、一個のりんごのすべてがどのような運動状態にあるか、そのすべてを捉え切ることができた数式は存在しない。誰も一個のりんごの全体像について知らない。知らないが、一個のりんごは確かにその全体としてある。

その613

事実は存在しないわけではない。事実とは、信仰によってできあがる。信仰によって下支えされていることは、そのすべてが事実ではないか。永遠普遍に正しいかどうかが事実の意味ではない。各人によって信じられていることのすべてが事実である。あることにつ…

その612

あらゆる事実は信仰とともにある。われわれに信仰的な態度があることで、この世界には事実がある。事実とは、言葉によって示される。放たれた言葉はそれ自体が事実を示す場合と、事実を示さない場合がある。むろん、事実を示す言葉は世界中の誰にとっても事…

その611

つまり我々は可能性の中を生きているのかもしれない。認識していることのすべてが厳密には可能性でしかないとき、我々は自らの打ち立てた可能性の中を生きている。事実というもののすべてが信仰であり、実質的には可能性でしかないのではないか。すべての事…

その610

世界は確かにある。そのすべてはモノなのか。コトも確かにある。この世界にコトはある。しかし、存在するコトをどれだけかき集めても、一個のリンゴすらできあがらない。そんなとき、コトのある意味とは何か。一個のりんごの部分を構成するコトだけが独立し…

その609

起こったことが世界を作っている。起こっていないことは起こっていないのだから、どこにも実在しない。実在するものだけがある。実在することは精神のうちにのみある。ものはコトが集まってものになるが、そのものができるためのコトのすべてを知らない。わ…

その608

考えたことについて、起こること、起こらないことがある。起こることだけを認識として持つことはできない。純粋に推論を停止し、起こったことだけを認識するなら、認識内には事実しかない。未来について思考することで認識があいまいになる。すべては起こっ…

その607

認識の完成は、可能性、そのすべての消滅による。わずかにでも可能性として考えられることがあった時点で認識は不完全なままだ。

その606

個別には方向があっても、世界の全体にとっては方向があるのかどうか。個別にあるいくつもの方向が自然と自己組織化し、世界の全体を方向付けているのかどうか。世界の全体に方向があるとしても、認識可能なのかどうか。世界の全体の方向はまず世界の全体の…

その605

動いているものはすべてが世界の一連の流れの中にあるのか。世界とは果たして一続きの流れにあるのか。一続きの流れに世界があるなら、世界で起こっていることにはすべて順序がある。ミクロを観察したとき、流れていく世界の順序が明白になるだろうか。否、…

その604

この世界の実質がカオスにあるとしても、そのカオスとは何か。世界のすべてが秩序立っていれば、世界はすべてが動かない。世界はカオスにあるから動く。

その603

未来から過去に時間が流れている。そう言われることがある。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。時間は存在しないとも言われ、それは単に認識内における事実にすぎず、いや、時間は存在しないといった意味が認識内における限定的な話に過ぎず、つ…

その602

昨日はどこにもないといった意味で無となった。時間軸上に存在する無とは、それがかつてあったことで現在において無となる。昨日があったから現在があるとしても、昨日はもうどこにもない。無となった。りんごが食べられて消滅したように、昨日も時間によっ…

その601

メッゾの領域にあるりんごは、その始まりをひとまず、そのりんごを構成する粒子にあるとする。さて、りんごを構成する粒子は、その始まりがどこにあるか。りんごを構成する粒子はいやおうなく時間のうちにある。時間をわずかに経過するか。長大な時間を経過…

その600

世界を支配するとはどういう意味か。それがなんでもそれがあればそれは世界への影響となる。しかし、影響を与えるものは影響を受け取っている。すべては相互反応のはずだ。であれば、完全に何かを支配できる主体の実在とは何か。どんな意味を持っているのか…

その599

拡散しようとするものが閉ざされていくことで結果的に生じるのが構造ではないか。拡散だけでは粒子の浮遊のみが現象として起こる。しかし、実際にはそうではない。世界はそのマクロでもミクロでもメッゾにおいてであっても、その構造を持つ。ミクロの構造が…

その598

ある風は一塊にないか。むろん、その風はその風の外部の影響下にあるが、それは一個のりんごがそこに実在するためにその外部からの影響下にあることと同じ意味である。ある風がどこまで吹いているか、その風にはその全体があるのかどうかはその風の流れを追…

その597

事それ自体が実際に物質としてあるのかどうか。物はあるが、物が変化していくのは事によるとしても、事それ自体が単独で実在するのかどうか。たとえば、風が吹く事それ自体は実在するのかどうか。確かに風邪は吹いている。それであれば風が吹くことは実在し…

その596

際限がないといったとき、それは無限を意味するが、無限それ自体が実在した時点で、あらゆる可能性が現実に実在することにならないか。頭の中にあるものごとすべてが実在しなければ、無限とはならないのではないか。 あるものだけがある。それが世界だ。頭の…

その595

世界はそのすべてが具体的であり、そのすべてが何かとしてある。何かとしてある世界は一通りしかない。一通りの世界であるが故にその具体がある。具体的な何かそのすべてが詰め込まれているのが世界であり、何が詰め込まれているのか、その全貌は明らかでは…

その594

確かなことが事実であるとき、事実は言葉だけではない。言葉としての事実と、言葉ではない事実がある。認識内にある何かはすべてが言葉ではない。なんとなく感じていたり、思っていたりすることがある。それがそのように思われていることは事実であり、それ…

その593

言語状態と現実は常に同一ではない。言語状態だけがあって、現実はその状態にないとき、言語状態は無だ。ある状況に対してとった言語状態がその状態と合致するのではないとき、その言語状態はたとえば小説などの創作に用いられ、それ相応の現実となる。人間…