その85

 空気に触れていることを空気に触れていると自覚していないのが私たちである。息をしていることも息をしていると自覚していないにも関わらず、息をしているのである。知っていることとは何か。身体内部の構造がどうなっているか、少しずつでも明らかにはなってきているが、リアルタイムでは知らない。まったくといっていいほど知らないことの寄せ集めできあた身体により生かされている現実において、私たちが知っているのは、みずからの足もとである身体よりか、身体の外部で起こるできごとについて知っていることが今日日、多いと考えられる。あのことを知っている、そことは知らないとあるが、どのことかとなれば、もっとも大切であるはずの身体の内部の状況をリアルタイムで知らないのである。どれほど知ろうとしても、意識は身体の外部に向かいがちである。知るためには身体の内部構造が肝心であり、知ったことが身体からもたらされたのは事実だが、それがいかに起こったのかは全く知らない。ロゴスとなったことを知っていると思っているが、知ることができるためにできあがったメカニズムがいかにあるかはリアルタイムで全く知らないのである。駆動した身体からもたらされた知はロゴスとなる。ロゴスを追いかけていけば知が育まれるが、ロゴスは身体とのせめぎ合いにより発展していくのであり、身体が発端となったうえでの知である。身体の機能が働くことで、知が紡がれていくのであるが、知とはロゴスとなったことばかりではない。ロゴスとなる前にも知の運動はなされているはずだが、それがいかになされているかについて、知ることはない。たんにロゴスとなったことを知っていると思っている側面があるが、知っていることの根源性とは何か。私たちが生存し、何かを知っていることとはいったい何を意味するのか。いかなる道程がそこにはあるのか。知っていることができあがるために駆動した物質のいかんは、再現できない。何かを知ることになったのは知り得るための経路が身体的にもある。身体外部にも知り得たことの原因がある。何かを知っているのは、その事実があったことが原因である。知ることができたのは知りうるための事実があった。起こったことがあったから知るための原因ができた。起こったことを捉えるために必要なことは、知的な活動である。生きて活動することとはそれらすべてが知性的なのではないか。身体内部における情報のやり取りがあって生きていかれる私たちはいかに起こっているかをロゴスとし、知らないとしても、身体内部では高度な情報のやり取りが知的に行われているのであり、存在とは情報であり、そのやり取りのいかんで姿が変遷していくもので、水がお氷に相転移するとき、どれほどの知的な活動が起こっていることか。知っていることは留まるところを知らない。何かを知っていることはそれがそのまま次へとつながる。私たちがうちに抱えたロゴスは一旦の停泊をし、静止にあっても再び動き出す。私たちはロゴスをため込んでも、ため込むことが本質ではない。さらなる運動に繰り出すロゴスは、私たちの身体を通じて運動を行なっていく。私たちの内奥から発されるロゴスは外部化されても同時に内部的でもある。書籍にあるロゴスが誰かの身体を通じて発され、相手とするとき、外部を内部化する意味をもつ。ロゴスとは外部にあっても、各人が内部化していくといった運動を秘めている。ロゴスは内部へと帰っていく。外部は内部である。