2021-01-01から1ヶ月間の記事一覧

その160

時空の流れがあるなかで、存在するものはその流れそのものである。存在は渾然一体となって実在すると考えられ、存在するものごとすべてを一個の原子と考えることができないか。一個の原子の中で動き続けている何もが相互に関係しあっていつつも、無関係のも…

その159

言葉が時空を超越した存在であるならば、言葉はこの世に存在しないことになるが、実際にはある。時空を超越したうえで存在するその存在の仕方とは、時空内における時空超越的な存在であると考えられる。時空において時空を超越しているとは何か。それはつま…

その158

私を認識する精神は、私が実際に下界との関係性の上にある状況をそのまま捉える。捉えた事実内容は外科医との関連にあるが、捉えようとした主体である精神は存在の流れの外部にあるのではないか。存在の流れの外部にある精神はそれでも存在のうちにある。そ…

その157

私たちは事実でないことも認識として持っている。であるとき、認識は確かな事実とそうでない、可能性の部分に分かれる。認識それ自体をメタ認知することが各人によってなされることが肝心で、認識したことがどういった状況にあるのかを認識したとき、認識は…

その156

一個のりんごを認識するとき、そのいかなるかは、私たちの認識において、確かな部分とそうでない可能性の部分がある。可能性とはそれが起こる確率のことで、それとはいくつもあるそれらのことであると考えたとき、一個のりんごに対して発生する不確定要素は…

その155

相応しいことはその限りでは正しいが、他の尺度からしたら、正しくないことがある。あてはまっているか否かが問われているのであり、いずれにおいても正しいことは、その都度確かめていかないと明らかにならない。どこまで確かめたところで、正しいことにな…

その154

理にかなっているとき、それは物事の筋道として正当であるといった意味か。その筋道がしかし、正当か否かについての判断がある。理にかなっていることの理のついて考える必要がある。理そのものとは、言語のあり方それ自体であり、先んじてある法則の範囲内…

その153

存在の全体に対して、時間軸を投じたとき、すでに消え去った存在もある。消え去った存在の細部まで知り尽くすことはできない。おおよその枠組みなら過去に遡って判明することはあるのかもしれないが、その枠組み内における細かなあり方までは判明しない。過…

その152

存在の全体がその運動としてあるとき、その全体の運動をそのまま捉えたとき、それこそがまさに、認識の全容ではないか。認識の全容とは、存在そのものよって表現され続けているのであり、私たちが把握しようとすることで生じる認識は、存在以前でも以後でも…

その151

認識とは存在そのものを完全と捉えたものであるとしたとき、認識は常に動いていないといけない。動いているままの認識は認識として成立するだろうか。認識とは私たちに理解されて初めて意味を持つと考えたとき、存在の運動をそれ自体として捉えることは可能…

その150

存在するものごとで出来上がっているこの世とは、そのすべてをして一個の全体と考えていいのか。認識内の存在と認識しきれない何かしらが存在の内部にあるとき、存在の全体とは、その広がりがどこまであるか、わからないのであれば、全体とは何か。在ると思…

その149

存在するが姿を持たない何かを非物質と考えることができるが、姿のない何かが実在することがあるか。希望であっても、そう思う思いはなんらかの姿を存在のうちに秘めていないか。思うことそのことが言葉になったとき、その思いの全体ではないとしても、言葉…

その148

存在にとってのありのままとは、存在するすべてのことで、存在にとって、存在することはすべてがありのままであり、非存在的なことが存在することはない。存在だけが存在する。しかし、存在しない何かが存在するようになる。存在しない何かは存在しないが存…

その147

あるがままある存在の自然とは、その運動ではないか。存在のあらゆる運動が自然であれば、自然ではないものとは何か。人間の活動により生じる物質は人間の運動の結果であり、自然の産物と考えることはできる。樹木の運動がもたらす何かはすべてが自然の産物…

その146

存在する可能性とは存在に依存している。現にある存在のあり方次第で続いて現れる存在がある。何かがあれば、そのほかの可能性が必ずある。いずれかになる。他の可能性もあったのか。わずかに違ったすがたになった可能性もあったが、そうはならなかった。ど…

その145

存在の余白とは、どこにあるのか。具体的に存在する場がなければならない。存在する何もかもに対して、無である存在は存在可能か。それは未だ実在しないが、可能性としてはある。存在可能性の存在する場が具体的な余白であり、それが可能性に過ぎないことを…

その144

何も存在しない場があることが存在の運動を可能としているとき、何も存在しないのか、何かが存在するのか、その間があるのではないか。存在するかしないかの二元的な実質ではなく、存在の運動が行われるにあたって、その運動自体がもたらす物質の状況がこの…

その143

一切の現象がないとき、そこは無である。何かが現象するから存在は存在可能ではないか。現象することで存在するのではなく、存在には現象をするための運動が与えられている。運動が与えられていることとは、その運動のための空間があることを意味する。空間…

その142

存在の原因にはその原因があり、その原因にはまたその原因がある。根源はそれでも現象であるなら、ひたすらなる現象が存在の根拠であり、一個の何かではなく、その変容のあり方すべてが存在の原因であるとき、現にある物すべてが存在の原因であり、存在はそ…

その141

言葉に置き換えられたことがあるものの、つねに論理的というのではない。非論理的であっても、言葉にはなるし、相応の意味がある。現実の複雑さが論理的であるばかりではないとき、非論理的なことこそが、現実的であるといった側面がある。論理的なことがむ…

その140

認識されないことのうちに私たちの生はある。生きるためにそのすべてを認識しているのか。言葉や数値になっていることだけが認識ではないのか。存在がそこにあるために必要な条件が揃っていることで、私は生きていられるはずだが、それらの一切を認識してい…