その94

 ある場を措定したうえで、その性質を考える。存在する何もがその遡上にあげられ、考慮されていい。りんごが存在する場にあるものはりんごだけではない。りんごでない何かがりんごの内部にある。場とは運動であるのだから、一概にそれ自体として決意はしない。次の瞬間には異なっている場は私たちの認識を超えた実在ではないか。存在を止めて認識できない限り、私たちの認識はつねに不完全でしかない。運動をそのまま捉えることはできないはずだ。運動する、ある領域場は、それ自体において、何を捉えようとするかで異なる。ある場といっても、その内実は多様である。場には一個の何かがあるのではないのは言うまでもない。ある場にはさまざまな物質が根差している。さまざまな物質はその実存において複雑系である。ある一個の要素に着目しても、それが在る事実は、私たちが措定して認識しようとする場を超越した実在であるのではないか。りんごは外見上のりんごを超えた実質をもった実在ではないか。りんごがりんごをまっとうするためにはりんご以外の何かが、そのりんごと全く同一の次元で必要とされる。りんごがりんごの外部を内部化して実存するとき、りんごの内部は同一の次元でりんごの外部である。存在するりんごの内部を場としたとき、その場の成立のために必要なことは、その場の外部である。場とは、けして観念ではない。実際に存在する物理的実在であるが、それ故にその把握は困難である。私たちが思い巡らせる領域以上の実在である可能性をつねに孕む場とはその要素を顧慮するとき、その運動を元に考えていっただけでも、把握しきれない、定義不能な実在であると考えられる。何か固有な場があることはない。存在の流れがあるのみではないか。