2023-09-01から1ヶ月間の記事一覧

その594

確かなことが事実であるとき、事実は言葉だけではない。言葉としての事実と、言葉ではない事実がある。認識内にある何かはすべてが言葉ではない。なんとなく感じていたり、思っていたりすることがある。それがそのように思われていることは事実であり、それ…

その593

言語状態と現実は常に同一ではない。言語状態だけがあって、現実はその状態にないとき、言語状態は無だ。ある状況に対してとった言語状態がその状態と合致するのではないとき、その言語状態はたとえば小説などの創作に用いられ、それ相応の現実となる。人間…

その592

意味はすべてが現実に即している。言葉の意味も現実によって紡がれる。現実がそのようにあることで言葉の意味がそのように紡がれる。言葉がある状態にあっても、現実がそのようになければ、その言葉の状態は無だ。言葉はその限りでいかようにもその状態をと…

その591

ある断定に対して、真逆の事実がある。そういったことは起こる。ある断定はそれ自体としてその時点で完全な無となる。意味を持たない。言葉には意味があるが、それが示すことそれ自体が現実に起こるかどうか。起こらない時、いや、永遠に起こらないとき、そ…

その590

言葉で、あり得ることと、あり得ないことと述べることにどれほどの意味があるか。あり得ないと言葉にしても、起こりうることはあり得る。起こった時点で、あり得ないといった言葉は完全に無となる。言葉はその意味が無となる可能性を秘めている。

その589

あるようにある世界は思考され、あることないことがこの世界に実在する。あるようにあるだけの世界をあるようにだけ考えることができるわけではない。あり得ないというか、絶対に違うこともわれわれは思考する。思考している時点ではそれが正しいかどうか分…

その588

世界で起こっている出来事のすべてが世界におけるプロセスの一端であり、何かが特別というのではないとき、我々の思考もまた特別ではなく、世界がどのようにあるか、その原因に一端となる。あくまでも一端でしかない。思考がいかにあるか、それは世界がいか…

その587

世界にはその全体がある。それ故に、何かが具体的にある。世界の全体もそれ自体として具体的だ。可能性はあくまでも可能性であって、思考されていることに過ぎない。そのうちのいずれかが世界の具体となって現れるわけだが、思考したが故に、そのような世界…

その586

純粋な世界に不純な私たちがいる。世界それ自体は純粋だ。それは不純な我々を含んだうえでも純粋だ。我々の不純さは世界の純粋さに包摂される。のであれば、つまり、あらゆる不純さは世界の純粋さに包摂されるのではないか。

その585

思考可能性と現実は完全な相関にはない。現実はまず先に、起こっていることが作り出している世界の総体であり、起こっていることのうちに我々の思考があり、その思考によって現実以上の何かを現実と捉えようとすることがある。我々の思考がなく、他にも思考…

その584

思考が真実と直結した時点で止まればいいのだが、その先を考えてしまう。可能性が他にも考えられると。そうした在り方から脱却できない限り、人間はほんとうの意味で真実に確かにたどり着くことはできない。間違いないと直感したとしても、間違っていること…

その583

分からなさ、可能性の残存。それこそがまさに永劫普遍の真理ではないか。何かがいかにあるか、それは時が経てば変わるかもしれない。その可能性がある。かりに変わらないとしても、変わる可能性があること、あったことを認識主体である我々は考えざるを得な…

その582

そのほとんどを知らないでいても、世界はそのすべてというすべてが法則によって出来上がっている。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。そのいずれであるか、それは事実として分からない。すべてが法則出来上がっていると捉えたとしても、そうで…

その581

リズムが崩壊したとき、世界は完全なるカオスとなりかねない。むろん、そうなっても、それは世界の自然だ。起こることが起こるのであり、起こって欲しいことが起こるのではないし、起こって欲しくないことがそのまま起こらないのではない。 世界はそのすべて…

その580

見えずとも確かにその全体はある。何であっても、その全体がある。すべては個別に具体的なその全体としてある。実在の具体性はどの次元で捉えるかで異なる。ミクロにおける具体性はメッゾにおける具体性、たとえば、それを構成する微粒子の具体性の集積とし…

その579

いっさいの視点を持つことなく、何かを見ることはできない。何かはその全体としてあるようにあるが、そのありのままをすべて見ることはできない。何かの全体は見えない。

その578

動いている物を一瞬で完全に捉えるのに、どこかに視点を定めても、捉えることはできない。どこかに定まった視点からはその視点からの主観が発生する。