2021-01-01から1年間の記事一覧

その378

りんごがりんごであるのはそれがりんごだからであり、それがりんごであることの意味は、それがりんごと呼ばれる何かであること以前に、それ自体であることを意味する。それがそれ自体であることの意味とは、それ自体が何らかのカテゴリーの中にあることを意…

その377

認識可能なのは、存在の流れを断ち切ることで可能となっているとひとまず考えることができる。しかし、存在はその流れそれ自体であり、それを断ち切ることで、その認識とすることの意味とは何か。認識それ自体は情報として固定される。流れていない。存在そ…

その376

可能性として考えられること以上に世界はさらにある。思考をどれだけ掛け合わせても、明らかにならない部分が永遠に認識されずにあるのか。世界はその性質を変えていく。その度に認識のあり方も変わっていかねばならない。あるいは、同じ世界に対して、それ…

その375

未来があるかどうか。未来があるから現在があると考えられる。現在だけがあるようでは、何も存在しないのではないか。運動が存在の根源にあるとき、存在を存在させている運動はいかなるものか。運動とは変化のことであり、現在において現在ではない状況が発…

その374

おわりのあるなしについて、いかに判断がなされるか。終わった瞬間においては認識主体も終わることになり、その時点で終わったかどうかを認識することはできない。死んだ自分を認識することができないように、世界が終わったとしても、その終わった状況を認…

その373

ないものがある。永遠にないかもしれないものがある。永遠に世界があっても実在しないものはいくらでもあるのではないか。永遠にあるなら、いずれは存在するだろうか。時間を費やした世界はそれだけ存在の物理量がこの世界において増したことになる。時を経…

その372

ありはしないものでも、言葉になれば、それは存在の一員となる。まったくどこにもなく、言葉にもなっていないものはないのかもしれない。ないけれど言葉になるものはあるものをもとにできあがる。言葉にもなっていなくて、どこにもないものが存在する何かの…

その371

世界には未来は含まれないと考えるべきなのか。存在しているものだけがあるのなら、いまだ実在したことのない未来は世界というそんざいの全て含まれた場にはそぐわないのではないか。可能性としてならある未来はそれが実際に訪れたことで明らかになる。99%…

その370

意味なき世界には何もない。完全に無だ。それは世界ではない。世界なるものがあるためには最低でも一つの意味がいる。もっとも始めの世界にはひとつの意味があった。それは生まれたのか。さしあたり、そう考えてみることができるだけの話であり、世界に始ま…

その369

思考とは何か。運動だろうか。運動するなら、なんでもそれは運動している。それゆえに意味がある。意味があるからこそ、何かである。意味だけがあれば、そこには何かがあることになる。何かそれが物質ではなくとも、意味があれば、そこには何かがある。仮に…

その368

1が2になるために必要なことはなにか。もうひとつりんごを買ってくることかもしれないし、友達と落ち合うことかもしれない。あるいは結婚することか。1が2になるためには、何かがまず一つあることが求められる。それはある領域を設定することで生じる現…

その367

時間の経過のないところに数は存在し得ない。存在の広がりが僅かにでも存在するためには時間の経過がいる。時間の経過のうちに数がその痕跡をとどめる。数とはその運動のことであり、その増減は存在の流れが持つ時間の経過の力による。時間が流れることで増…

その366

数は常に、何かの数であり、量を意味する。何の10なのか。10だけがあっても、それが何なのか、まったく分からない。10であることは理解される。10であることが理解されただけのとき、そこにある意味とはなにか。何の意味もないのではないか。10が…

その365

同一の概念で呼ばれる何かであっても、その内実はそれぞれ異なっている。差異がある。違いを細かく捉えるためには数がある。量の違いなら数で表現することは可能であるが、個別に異なった同一の概念を個別に言い表す言葉を現実に持たないことは多いのではな…

その364

風が吹いていると書いてあって、実際に風が吹いているとしても、その中身までは書かれていない。つまり、言葉はそれが文章になっても、それ全体として記号なのではないかと。書かれたこと、語られたこと。その向こうに真実が拓かれている。記号には記号の意…

その363

何かを知るためには、知らないことをいったん排除しなければ知り得ることができないのではないか。知ろうとしてその全体を追いかけていくなら、その終わりがない。終わりがないことをすべて知ることはできない。なぜ部分だけ知っても、それ自体として成立す…

その362

知らないことがあることをして自然とし、かつ、知り尽くせない。それが一個のりんごであっても、そのなんたるかは知り尽くせない、その不可能性をもって自然と呼ぶこととは何か。その全体を知ることで初めて、それ自体を知ったことになるとき、知識はその全…

その361

認識にないことが認識したことと関わっていることが常にある。そうしたとき、認識とは何か。形式か。どういった意味で認識が成立するのか。しているのか。ある全体としての部分を認識したとして、それはなぜ成立するのか。認識のうちになぜぴったりとハマる…

その360

すべてが順序正しく起こっていると捉えようとするとき、それはあくまでも認識内でのできごとに過ぎない。認識の外ではどうなっているのか。やはり順序正しく起こっているのか。認識の外にあるできごとは認識の外にあるのだから認識できない。認識は認識でき…

その359

純粋に存在があるのであれば、すべてはその順序通りに起こっていると考えられる。そこでは、認識通りに存在がその変化にあることを意味する。認識はその合理性や論理性を旨とすることから、そこには順序があると考えられるが、実際に世界の全てがなにかしら…

その358

あらゆる個体からその主体性が発揮され、それらすべてが認識をもつとき、その総合が絶対複雑性を表すのであり、一個の認識はそれ自体として純粋にただそのようにある。純粋さを足し合わせていけば、カオスにしかならない。一点を定めることで、その他の差異…

その357

存在する限りの認識主体とは何か。しょせんは、人間の人間による認識により、その主体を見出すことになる。人間が考えることが万事ではないのはいうまでもない。万事のうちの一部が人間なのであり、その人間が行うことで発生する現象なのであり、それがまさ…

その356

複雑なのは、その対象が複雑なのではなくて、理解しようとする側に要因がある。複雑にしか理解できないことから、その対象が複雑なのである。世界にはさまざまな認識主体があり、それぞれが認識機能を独自に持っている。その機能により認識を行うことで、そ…

その355

複雑すぎて分からないことがある。その複雑さとは何か。人間の認識機能にそぐわない。単にそれだけの理由が、その複雑さの原因か。複雑に感じられることは単に理解の難しさが原因にあるだけで、理解が難しいのは、認識主体からすればそのようにあるだけのこ…

その354

関係性があるのであり、一個の現象が独立してあるのではない。つねに周囲がある現象はそれがそのようであるには計り知れない訳が潜んでいるに違いない。関係性のあり方がどのようにあるか、そのことを知ることが一個の現象を知ろうとすることだ。一個の現象…

その353

何かそれがあること、それは有限であり、その限られた実在をもとに、それ自体が動く。いったい何のために動いているのか。あらゆる実在はその目的を持っているのか。人間は何かの目的を持って動くことがある。それを意識が行うことがある。意識がなければ、…

その352

私がいて、意識がなければ、私は私がいることを知らない。私としての活動はある。動くことはある。何らかの運動のなかに投じられた身であるのだから、意識がない私であっても、動くには動く。存在すればそれは動く。しかし、意識があることで動きをいくらか…

その351

何かがあり、それ自体が所有する関係性が意識をうむのではないか。それ自体になぜ意識があるのかは、それ自体が関係性のうちにあるからではないか。それ自体でありつつも、それ自体ではないことから影響を受けて、それ自体として実在するとき、それ自体とそ…

その350

それ自体であるためには、それ自体を支配下におく必要がある。支配下にあるといっても、そのすべてを支配できるわけではなく、ある部分を捉えることができるに過ぎない。あるいは、その全体のような何かを捉えようとすることがあり、それがそれ自体を存在さ…

その349

現実とはそのリアルタイムに起こっていることのすべてである。起こったこと、起こっていること、起こるかもしれないこと、そのいずれもが現実であるが、物質として存在するのは起こっていることだけかもしれない。起こったことはもはやどこにもない。起こる…