2021-06-01から1ヶ月間の記事一覧

その251

それが正しければ真理であり、かつ、それがどうあろうと、存在がそのままそのようにあること自体、それは疑いようのないことであり、存在即真理であると言えないか。存在即真理とは、何かがそこにあることが真理を物語っているといった意味であり、それは言…

その250

真理であることとは何か。絶対の真理であることとは、絶対である以前に、問いなのか。問いとしてしか真理は存在しないのか。かくかくしかじかが真理であるといった断言が一切の問いを受け付けないことはあるのか。つねに真理は問いと向き合ったうえで実在す…

その249

目の前にあるりんごはどこまで具体だろうか。具体的に一個あるりんごが具体的ならその実質が明らかにならないと、ロゴスでその具体を捉えたことにはならないが、ロゴスでどこまで一個のりんごを捉えることができるか。何が明らかとなって、そのりんごだろう…

その248

起こっていることがあると捉えるためには、起こっていることが限定されなければならないのではないか。認識とはその限定によるのではないか。限定することで認識を獲得することができるのではないか。何が起こっているのかを具体的に把握するためには、何か…

その247

認識を基軸におけば、起こっていることに順番ができる。これが起こったあとに、あれが起こると把握することができる。しかし、存在の動きのあらゆる姿をもとにしたとき、その次元において決まった順番があるといえるのか。順番があるかないかとはつまり、そ…

その246

りんごはりんごであることと、りんごでないことのあいだにある。りんごはりんごであって、りんごではない。りんごであるりんごはそのりんごではないことを含み込むことでそのりんごたり得ている。りんごではないがりんごである何か、それはそのりんごにとっ…

その245

それ自体はそこにある。ただそこにある。そのことが物語っている。そのことは、そのものそれ自体を超えて物語っている。そのものはそれ自体以上のことを物語っている。そのものがそこに存在することが、そこに存在しないものについても物語っている。りんご…

その244

言葉、つまり概念において捉えられた領域の運動を数に置き換える。それで概念の意味するところのすべてが捉えられたのか。存在の物質的な運動をそのまま数値に置き換えるとき、置き換わった数値が捉えようとした概念のすべてであるのか。いや、すべてである…

その243

存在はそのものが語っているのであり、それは私たちが把握して語るのとは別の次元にある。存在することそれ自体が語ることと、私たちがそうかもしれないと思い語ることがある。存在において起こっていることをリアルタイムでそのまま語ることができない以上…

その242

何かを認識するとき、それはその判断のことを意味する。その判断とは、切り取りの可能性がある。切り取るから認識できるのではないか。認識はそれが何であっても、断片なのではないか。存在の全体があるなかで個別の事象について認識をもつとき、個別の事象…

その241

存在の全体を制御する力が実質的に働いているのか。それとも、個別的な意味的連関が相互に繋がっては途切れ、その意味的連関を構築していく、そのプロセスが存在のありようなのか。つねに不完全でしかないのか。それとも、つねにできあがったうえで、そこか…

その240

存在はそれが何であれ、意味の運動により捉えられた実在であるとするとき、何かはその意味の運動により変化をし、その意味の運動の領域内にあると考えることができる。存在にまつわる意味的連関は不連続にある。ありとあらゆる実在が一個の意味的連関のうち…

その239

存在はそのすべてが出そろった状況にある。そのうちの何かを知っている。知っているのはしかし、部分に分けることで知られているのであり、部分に分けることをしなければ知ることができないとき、知ることができるのは欠片でしかないと考えられる。欠片は、…

その238

存在の流れのうちにあるこの身体は、その浮遊にあるといっても過言ではない。流れに浮かんだ実態ではないか。ふわりふわりと浮かんでいる。釣り合いのとれたところにいる。周囲で何が起こっているのか、それを言葉にして理解することはない。ただ存在してい…

その237

考えられることはすべてが可能性となるのか。それとも、考えられることであっても、可能性としてはゼロの場合もあるのか。たとえば、人間が海の底で500000000年眠ることを考えることはできる。あり得ないと思われることであっても、考えてみるべきであり、考…

その236

りんごがなぜあるか、その原因となっている存在がどのようにあるか。そのりんごにはそのりんご特有の、関係する領域があるのではないか。そのりんごが存在する場はそれ自体が特有である。どこにもないそこだけの場であり、それゆえに、そのりんごの実在もま…

その235

領域は線で区切られるものではなく、領域により区切られると考えてみてはどうか。ある領域のうちで変化する領域がりんごと関わりのある、存在における部分と考えることができる。可変領域のうちで変動する領域のうちにある、領域内存在であるりんごは、しか…

その234

存在はそのものにより表現されている。存在がそこにあることがその存在の意味である。しかし、そこにあるものがそれだけの意味を持つのではない。そこにあることがそこにないものへと影響を与えると同時に、そこにないものからの影響を受けている。そこにあ…

その233

捉えるとは厳密に捉えることを意味する。厳密に捉えることの意味は、存在の細部についてそのすべてを理解した上で捉えることになるなら、存在の細部とはその運動にあるのだから、捉えるというよりか、そのものそれ自体が捉えられる前に、そのものそれ自体と…

その232

認識対象が認識を超えているといった意味とは何か。認識しようとする対象はそれ自体が運動を持つことから、止まった認識に置き換わることがない。認識そのものが動いていないといけない。動きを伴わない認識とは何か。数式はひとつの認識であり、止まってい…

その231

カオスとは、全体を捉えようとしたときに、けして認識できない状況のことを言うと把握することができる。存在の振る舞いが認識を超えている。認識可能の部分は確かにあるが、それですべてではない。起こっていることは複雑に絡み合っているのではないか。複…