その102

 現実とはフィシスであり、私たちの預かり知るところではない。個別の現象なら知り得ることがある。私たちが実存的に認識する何もは存在として確と実在し、ありのままの状況のいったんであると考えられる。りんご一個が実在するとき、物質的な次元でそのフィシスが存在するように、物質的な次元で私たちがりんご一個に対してもつ認識がある。そう認識された事実は覆らない。りんごの実存には多様な側面がある。純粋なりんごのフィシスは存在しないのではないか。動的なりんごは、その関係を内外に持つ。りんごとは何か。りんごのフィシスとは何か。りんごを貫き通すフィシスがあるのではないか。フィシスがあるから、りんごがあるのか。

 りんごを貫くフィシスとは、りんごの成分のみではない。なぜそれらの成分が存在可能となっているか。りんごの内部における成分は内的な完結にあるのではない。存在はいずれもが関係項として実在する。何かがあるのは、何かと何かの間にあるのであり、関係性それ自体の姿として実在するのがりんごである。そのりんごはいかなる関係性のうえにフォーカスされた実在なのか。りんごに着目したとき、りんごだけを観察しても見えてくることが完全に存在するのではない。りんごの内部を観察することはりんごの外部を観察することと同義ではないか。見えているりんごは情報空間のなかにある存在である。いかなる情報を内在させてりんごは実在するのか。りんごとは、情報空間において閉ざされた系であるのではない。動的な情報空間において、動的なりんごが実在するのだから、情報の揺らぎを秘めた実在であるりんごは、その内部を外部に依存している。逆もまた真であり、りんごの外部は即座にりんごの内部である。目に見えている境界は存在における実存とどこまでの関わりにあるのか。ここまでがりんごとの関連にある物質性であり、それ以降は関係がない物質性となるといったような明確な境界はあるのか。