2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧

その97

一個のりんごをある瞬間に見たとき、その全体は見えない。私たちではなく、機械などの装置でも、それは私たちと同じ主となる状況から脱することはできず、一個のりんごの全体はいかなる主体からも見出すことはできない。仮に、一個のりんごを止めたとしても…

その96

純粋に客観的に捉えようとするとき、捉える対象はそのものでしかない。捉える行為以前に実質がある。最も客観的なのはそのもの自体であり、対象を捉える行為は主観をはらむ。対象がいかにあるか、それを知らないから客観的に捉えるが、何かが主となることで…

その95

存在の流れのなかに場があることは何か。流れて動くなかに場を措定して認識することは可能なのか。措定された場はそれ以上の実在である可能性を孕む。措定された場とは私たちの認識の主観性により構築された領域であり、物理的に定まった領域ではないのでは…

その94

ある場を措定したうえで、その性質を考える。存在する何もがその遡上にあげられ、考慮されていい。りんごが存在する場にあるものはりんごだけではない。りんごでない何かがりんごの内部にある。場とは運動であるのだから、一概にそれ自体として決意はしない…

その93

ゼロとは、まったくないを意味し、その存在がどこにも見受けられないことを、存在論においては言うのではないか。私たちによる想像すらもなされたことのない何かは私たちからしても、ひとつとして知られていない上に、存在のどこを探してもない。私たちに知…

その92

存在のうちにりんごがある。存在の場において、りんご性がいかにあるかは、プラスかマイナスで計測できる。ゼロはあっていいのか。りんご性ゼロとは、存在の不在を表さないか。何かがある場には、さまざまな影が兆しているのではないか。りんご性がプラスの…

その91

そこにりんごがないことは、りんごのゼロではなく、りんごのマイナスである。りんごは実在するがそこにはないだけの話であって、どれほどの物質的な性質によりりんごがないか。それを捉えて表そうとしたとき、りんごがないところにりんごがいかにあるかをゼ…

その90

ゼロから1になり、またゼロになる。りんごの一切がないところにりんごはない。りんご性ゼロの地点が存在の流れの中にある。しかし、いつしかりんごの芽吹きがある。ゼロから1となった。ゼロとは何か。ゼロ以前のマイナスが存在の流れの中にあるのではない…

その89

一切が情報であるとしたとき、存在するのは情報であり、構築された情報により生まれた枠組みが個物として実在するものの、枠組み以前にある情報が実在するはずで、できあがった枠組みはいかなる情報が根底にあるのか。りんごがりんごの姿になるための枠組み…

その88

りんごの実存はりんごの構造以上の広がりにある。構造の成立のために与えられる構造があるのではないか。ある構造をもつりんごの内部の成立のために必要な構造がりんごの外部にあるのではないか。存在の流れとは畢竟、構造ではないか。りんごの内部構造はそ…

その87

ある存在の外部であった何かが内部化されることはあるのか。ある存在の外部は動的であり、外部であった状態がそのまま内部化されるのではないとき、外部が内部になるといった表現は適切ではない。aがbになることが外部の内部化であれば、外部は外部であり、…

その86

外部が即座に内部であるとは、何かを基軸しにしたときに生じる外部は存在の流れの中では外部それ自体もまた基軸であり、基軸自体からするとそれ自体は内部である。あらゆる個物はそれ自体であり、それそのものはすべてがそれ自体であるといった意味での内部…

その85

空気に触れていることを空気に触れていると自覚していないのが私たちである。息をしていることも息をしていると自覚していないにも関わらず、息をしているのである。知っていることとは何か。身体内部の構造がどうなっているか、少しずつでも明らかにはなっ…

その84

一口にいうなら、創造的崩壊が事物の現象ではないか。現にある姿から変わっていくことは崩壊であり、そのことが事物の流れを新たに作り出していくといった意味での創造である。作り替えられていく事物は絶え間のない生成の状況にあり、私たちから見ると崩れ…

その83

存在とは、構築されていくのか、崩壊に向かっていくのか。崩壊へと向かう構築なのか。崩壊を間逃れるための構築か。枯れて落ちた葉っぱが土に変えるとき、葉っぱは崩壊へと向かっているが、葉っぱを受け入れる土は構築へと向かっている。葉っぱと土の境界は…

その82

できごとは常に起こっている。何かが起こったことでできごとが起こったのではない。あるできごとが起こったとき、それが起こる前に起こっていたことがあることで、私たちの認識したできごとがある。私たちの認識したできごと以前に起こったことを知らないで…

その81

存在の原因が究極的に実在するのかどうか。何かが存在するときに必ず必要な何かがあるのか。これ抜きに存在は語れないといった事実は実在するのか。実在するかしないかを見出そうとするとき、実在するとしてもつねにしない可能性が除外できないのではないか…

その80

りんごの虚無がりんごの本来の姿だとしても、いかなる主体からしても、りんごの虚無は見えてこない。主体からの把握は主体により主体化される。色彩は主体により与えられたものであるが、対象の物質性との関係性それ自体により生じるのが対象を捉えたときに…

その79

私たちにとってのりんごが幻影である意味とは、私たちがいかに認識しようとしても、動い続けるりんごの細部にわたって完全なる認識をもつことはできないことに端を発する。動き続けるままを捉えるとき、厳密に考えていけば、数値によってでさえ表現しきれる…

その78

これはいつの時代にできた道具なのか、といった問いの存在は、存在する人誰しもに問いかけていると考えられる。ある人がある人に向けて問いかけたとき、問いは問うた人と問われた人のあいだにある。一冊の書物であっても、著者と読者のあいだにその書物の実…

その77

ドラゴンは存在するかと問うことと、ドラゴンはいかに存在するのかと問うことにはもちろん違いがある。ドラゴンは存在するかに対しては、するか、しないか、の排中立の答えが考えられる。存在すると答えたとき、そのあとに、ではいかに存在するのかとの問い…

その76

どれほどの荒唐無稽でもそれがロゴスとなる限り、実在である。実在であるといったとき、それそのものが存在するのではないが、それそのものがそう描かれた痕跡は実在するといった意味での実在であり、触れ得ることができないかといえば、ドラゴンであっても…

その75

まだ起こっていないことに関して、起こりうる状況を孕んでいるとき、可能性があると言える。まだ起こっていないことが絶対に起こりえないとき、可能性がないと言える。可能性とは、想像されるできごとが起こるか起こらないか、起こるならどの程度かなどを考…