その84

 一口にいうなら、創造的崩壊が事物の現象ではないか。現にある姿から変わっていくことは崩壊であり、そのことが事物の流れを新たに作り出していくといった意味での創造である。作り替えられていく事物は絶え間のない生成の状況にあり、私たちから見ると崩れていっているとしか見えない事物も次への姿への始まりではないか。固定化された現在はない。終わりを含んだ始まりが現在をかたちあるものにしているのか、それは知らない。現在は存在するのか。私たちが認識主体であることが現在を実在させているに過ぎないのであり、実質的に現在といった物質性は事物の流れの中には組み込まれていないのではないか。私たちの実存は疑いようのないことであり、私たちとは存在のなかほどにおける一隅であることから私たちの為すもろもろの行為のいかんはそれら総てが実在であるのだから、私たちによる生成的な現在が存在の一端であることは事実として認められることである。現在は存在するが、それは私たちの実在抜きには実在しない可能性がある。私たち以外であっても、時間の観念をもった認識主体が実在するなら、現在はその主体の領域において実在する。どれほど僅かなる一隅であっても、存在するなら即、実在として認められうる。認めるのは私たちであるが、私たちではないとも考えられる。私たちがまったきの不在であっても、存在はそれが在れば認識されまいと実在である。私たちの認識しえないものも実在である可能性がつねにあるのは存在すればそれはすべて実在であるといった意味においてである。

 私たちに生み出される物事のすべてが実在的現実であるとき、私たちは一個の領域を存在の流れのなかに生成している。私たちは単なる存在者ではない。存在の流れのなかに実存する情報として、その反応系である。動的反応系としての実在である私たちはその外部を内部に持ち、かつ私たちはすでに私たちの外部である。私たちは自覚的に触れ得ていないものにも触れ得ている。