2021-03-01から1ヶ月間の記事一覧

その200

存在はカオスであるとか、秩序だっているとかといった定義とは関わりをもたない姿であるのが本来的な存在のあり方ではないか。カオスであると捉えることができるのは、カオスといった認識を私たちが精神のうちに所有するからで、秩序もまたそうした捉え方を…

その199

認識の存在は、それが在るといった一点においては、それがいかにあろうと実在であり、その正否については、関係性によるところから、即座に決定づけることが難しい。正しい認識とそうでない認識があり、そのいずれもに正しい可能性があるとき、認識の存在は…

その198

存在の渦中にある認識は、その内的な中身を持つと同時に、その内的な中身が存在の一部として機能することで、外部へと働きかけをする。存在を捉える認識は存在の一部として機能する。存在の含まれた認識は存在それ自体だが、存在それ自体として、その変動に…

その197

存在のうちにある私たちの認識はそのすべてが存在におけるできごとである。存在のうちに認識がある。いかなる認識をもつか。それは存在がいかにあるかに関わることであるものの、そこには2通りの意味がある。つまり、存在がいかにあるかそれ自体を捉えるのが…

その196

つながっているか、いないか。それは認識上のことで、つながっていない状況を存在の側が感知することはないのではないか。認識しようとすることで、つながっていない箇所が見出されるに過ぎない。あるがままある存在とは、認識を超えた存在ではないか。存在…

その195

水は水となることで水であることが可能となるといった見方からすると、存在するものは何もがある枠組みを存在の流れの中から与えら得たうえで存在することのなったと考えられる。水がなぜ存在するかを考えていった時、その因子が確かにあるが、それが揃うた…

その194

水が氷になるのにどんな力が働いているか。水の内部だけがその原因ではないことは自明である。水はその外部の環境の変化を受けて姿を変えて、氷になる。内部の変化の原因が内部に一切ないと考えるのは過言となるが、外部環境が水を水のままとしておく。水が…

その193

りんごのりんごらしさの原因とは何か。存在のうちでそれがりんごであるのはなぜか。りんごではないものからりんごは生じたのか。りんごがまったくなかったところにりんごが出来上がるためには、何が起こればいいのか。どんなできごとがりんごを生んだのか。…

その192

ある花があって、その意味について考えたとき、あらゆる言葉を尽くしたとしても、その花の意味のすべてを語ることはできない。言葉の意味以上にあるのが、その花の意味ではないか。どんな意味があるのはわからないほどにあるのが花の意味ではないか。ありふ…

その191

何も知らなくても、生きていることはできる。知っていることの意味を言語化されたものとしたとき、言語化されたことだけを知っているのではないことがいえる。言語化されずとも、何かをみているとき、それがそう見えていることは知っているだろうし、何かの…

その190

認識の存在なくして、私たちの実存はない。認識とはしかし、存在のうちに含まれている私たちにおいて完全なる整合にあるのではない。存在の渦中を生きている、そのときのことは、存在そのものと同期しているが、認識は存在のあるがままと比べられ、原初の遅…

その189

知らないことが実際にいま生きていることとの関わりにあるとき、知ってはいないが関係はあることになる。関係のあることを知らないというのは、言葉になって知っていないだけの可能性がある。言葉になっていないことといかに関わっていると言えるか。関係性…

その188

できごととはそのすべてが物質的か。物質的ではないできごとがあるなら、いかなる姿であるか。物質的実在はすべてができごとである。できごとの内実をすべからく捉えるとき、その全体とは何か。いかなる全体性ができごとにはあるか。全体とは、私たちの認識…

その187

現在はその事実だが、事実のなかに偽りが混ざる。偽りの存在も事実であり、事実とはつねに正しいことばかりを含むのではない。誤ったことが誤って述べられることも含めて事実であるとき、事実とは、存在するすべてのできごとである。起こっていることのすべ…

その186

語とは何か。たとえば、愛といった語は何を包含するのか。愛でないことは包含しないのか。愛と関係のないことは愛ではないのか。愛と関係のないことは、愛と関係がないと思われているに過ぎないのではないか。関係があるか、ないか。それは主観的な現象であ…

その185

語は現場の文脈に依存する。定義は定義自体の文法に即したかたちでなされるため、語の定義は、その語の意味を狭量にしてしまう可能性がある。定義は文脈に依存し、その都度作り変えられる。使用者の実存がその語に命を与えるのだから、一口いえる定義をその…

その184

言語空間は言語といった基軸をもとに、そのつながりにあると考えられるが、言語空間を含む存在空間において、言語空間内で起こっていることに、無関係性があることから、存在空間には穴があると考えられないか。言語空間はそれとも別次元での話なのか。物質…

その183

言語は合理的に示されることがあれば、不合理に示されることもある。言語空間の総体はカオスであり、秩序だっていないはずだ。総体は幻想でしかない。紡がれた言葉がすべて関連にあるのではなく、言語空間において、関係と無関係が入り乱れているのが現実で…

その182

思考とは何か。考えることだが、考えることとは言葉をあやつることか。言葉で操るのは言葉だけか。言葉を操るのではなく、言葉で存在を操るのでもなく、存在のあり方がさきにあるのだから、その底では存在が言葉を操っていると考えるほうが妥当ではないか。…

その181

りんごのなかでりんごの成分がりんごについて考えることとは何か。りんごの成分はりんごのことを考えているから、りんごの成分であることができる。りんごの成分はりんごについて考えさせられる存在であり、りんごの成分である以上、りんごについて考えざる…

その180

つながっているか、つながっていないのか。事実は一通りしかない。すべてがつながっているのであれば、つながっているし、つながっていない状況もまたそうあるなら、それまでの話だが、そのピュシスが見当たらない。ありのままが見えるなら、それ以上考える…

その179

意味だけがある。意味だけがあるのが存在の広がりにおける実質ではないか。意味が姿を変えながらあるのが生きる土台としての存在ではないか。意味が姿を変えるのは私たちの内的な実存でもあり、かつ、私たちとは無関係に意味の変容がある。その意味の変容が…