2020-01-01から1年間の記事一覧

その79

私たちにとってのりんごが幻影である意味とは、私たちがいかに認識しようとしても、動い続けるりんごの細部にわたって完全なる認識をもつことはできないことに端を発する。動き続けるままを捉えるとき、厳密に考えていけば、数値によってでさえ表現しきれる…

その78

これはいつの時代にできた道具なのか、といった問いの存在は、存在する人誰しもに問いかけていると考えられる。ある人がある人に向けて問いかけたとき、問いは問うた人と問われた人のあいだにある。一冊の書物であっても、著者と読者のあいだにその書物の実…

その77

ドラゴンは存在するかと問うことと、ドラゴンはいかに存在するのかと問うことにはもちろん違いがある。ドラゴンは存在するかに対しては、するか、しないか、の排中立の答えが考えられる。存在すると答えたとき、そのあとに、ではいかに存在するのかとの問い…

その76

どれほどの荒唐無稽でもそれがロゴスとなる限り、実在である。実在であるといったとき、それそのものが存在するのではないが、それそのものがそう描かれた痕跡は実在するといった意味での実在であり、触れ得ることができないかといえば、ドラゴンであっても…

その75

まだ起こっていないことに関して、起こりうる状況を孕んでいるとき、可能性があると言える。まだ起こっていないことが絶対に起こりえないとき、可能性がないと言える。可能性とは、想像されるできごとが起こるか起こらないか、起こるならどの程度かなどを考…

その74

変動する領域がりんごの実存をすべて覆っているといった状況が実際に存在するのかいなか。存在の広がりにおいて、ここから先はまったくりんごとは関係ないといった部分があり得るのか。りんごの実存にまったく関係のない部分が存在の広がりのなかにあるのか…

その73

領域があると考えるのは、私たちが認識を行うことが原因に考えられる。領域のない状況を私たちは認識可能なのか。運動する状況をそのまま領域なく捉えることはできるのか。私たちが認識をすることで領域が必然的に設定されるのではないか。領域を設定するた…

その72

何かが単体で存在する以前にあるのができごとではないか。私たちの認識し得ないことも含め、ありとあらゆるできごとが起こっている。できごととは起こったことであり、それが何であれ起こってしまったことから事実となり、存在の構成要素となる。存在とはそ…

その71

私たちにとっての赤が赤であるとき、私たち不在であれば、私たちに条件づけられた赤は実在しない。りんごはある。しかし、それがその赤であるのは、認識主体の主観性による。あらゆるできごとが現実であるとき、りんごの色彩は、そのりんごに対していかなる…

その70

色とは存在の流れのなかで個別に凝縮された結果であり、その運動である。赤い運動が青い運動と隣り合うことで、私たちが機能的に色彩を生み出していく。物理的には一個の現象である色の根底はフュシスであり、それ自体のいかなるかは判然としないなかで、赤…

その69

りんごがいかにあるかは、そのりんごそれ自体がそのようにあることである。そのようにあるりんごをそのままロゴスに置き換えることはできない。ロゴスになったりんごはりんごそれ自体ではない。そのりんごの色はそのりんごと外部環境との関連によりもたらさ…

その68

一個のりんごは動いている。一個である事実は動かない。動かない事実があるなかで動いていることの意味とは何か。それがりんごで一個である事実が不動であり、一定の時間運動をしないとき、りんご一個の存在の語ることとはなにか。完全に停止した状況がある…

その67

私たちにとっての情報が、私たちの認知しているものに限っての情報という意味でなら、正鵠を射ているが、情報とは私たちの認知する領域以上の広がりを持っている。情報があるから存在がある。存在する何もが情報であり、私たちが知っていることだけが情報で…

その66

存在とは情報のことで、情報のあり方について知ろうとするのが私たちであるが、私たちは私たちの方法で情報を知る。私たちの方法が情報のフィシスを私たちの内に実在化する。存在が私たちのうちに内在化されて初めて、その把握となる。私たちにとっての情報…

その65

フィシスが理を孕んでいるなら、フィシスには理路がある。理路があることが存在を存在たらしめているのか。私たちの機能が生み出す理路ではなく、存在そのものが紡ぐ理路があるのか。フュシスとは私たちのたどり着くことのできない存在性である。私たちがた…

その64

事実がある。存在の本来性である事実と、私たちが存在を認識したときにできあがる事実。いずれもが事実であるとき、いずれもに理がある。いずれもに理があると思うのは私たちの主体性である。存在の本来性であるフュシスは、理として存在しているのか。私た…

その63

認識が不完全でしかないとき、私たちの知っていることがどういった状況にあるのか。一個のりんごの部分を知っている。りんごの実存的な領域の全把握はできない。りんごの実存的領域がどこまでの広がりか、それは定かではない。変動するから捉えきれないとい…

その62

運動するりんごの領域は運動する。運動する何かを捉えることは原理的に不可能でしかない。何らかの把握はできるが、その全体には及ばない。何かの全体はフュシス的には実在するが、私たちの認識上には実在しない。ここに断絶がある。存在の実質と私たちの認…

その61

関係性とは事柄のことであり、実質としての実態を持たない。実態を持たないが存在するコトが私たちの感じる実質との関連にある。何かと何かの関わりのうえにある実質が何かと何かを存在させているのではないか。何かであることは何かであり得ているのである…

その60

私たちは私たちをまっとうし、私たちの主体から構築された日々を生きている。生きるとは私たちを生きることである。シマウマはシマウマをまっとうすることで生きている。シマウマと関わりのある部分が私たちにとってはまったく関係のない部分として存在する…

その59

流れの中にあるものは何であれ、流体である。流れが流れを生んでいる。生み出された流れは、他の流れにとっての流れとなる。一個のりんごは一個の流れであるが、りんごの流れはどこまでの流れを含んでいるのか。ある流れが成立するために必要な絶対性がある…

その58

個物の存在よりか広い領域が系となり、個物を実在させていると考えられる。それ自体はそれ自体のための領域内に実在する。絶対基底が一個のりんごを包摂した上で実在する。絶対規定はりんごのよりか広い領域である。絶対既定の系は移ろいであり、姿の変容が…

その57

循環系である存在において、a=非aである。a=非aはaの運動を現す。aがaでないものと等しくあることが同一の時刻において成立することの意味は、ひとつのりんごがりんごではない運動の循環系に含まれた存在であることの証左ではないか。何かがあることはそれ…

その56

私たちは認識しようとして、存在について考える。考えるとは存在を解体し、整理することを意味する。どうなっているのか。そのすべてがすべてである確証は永遠に持てないのではないか。私たちは認識するがその完全性は対象について、どこまでの分量であるか…

その55

りんごの内部は他の何かの外部である。他の何かの外部がりんごの内部であるとき、りんごの内部は、他の何かの絶対基底である。何かは絶対基底を存在するための領域として所有し、そのものの内部のみならず外部もまた欠くことのできない実在として抱え込んで…

その54

りんごの内部は他の何かの外部である。他の何かの外部がりんごの内部であるとき、りんごの内部は、他の何かの絶対基底である。何かは絶対基底を存在するための領域として所有し、そのものの内部のみならず外部もまた欠くことのできない実在として抱え込んで…

その53

りんごはその絶対規定により実在している。りんごとはその絶対基底そのものである。実在するために必要な要素が絶対的な基底そのものとしてある。流転するりんごが一個の現象体として実在するとき、絶対的な基底がなされることでりんごはりんごであることが…

その52

りんごが生まれるために必要だったことがある。りんごそのものの外部にりんごの原因があるとき、りんごはりんごではないものから出来上がっている。りんごであることはりんごであることのみならず。りんごであることはりんごであることと同時に、りんごでな…

その51

イメージがイメージであるためには、対象とは異なっていないといけない。そのものそのままであれば、それはイメージではない。りんごそのものはりんごのイメージではない。りんごのイメージはりんごを元に作られた主観性である。それがどんなものであれ、対…

その50

見ているものを見ているといった表現は現実において成立するのか。見ているものがある。見るといった主体がある。その間にあるのが見られた物のイメージである。どこにあるのか。対象は処理されたうえで浮かび上がる象がある。浮かび上がった像を眺めること…