2022-06-01から1ヶ月間の記事一覧

その439

一個のりんごとはその関係性によりできあがっていて、りんごでなくとも、何かしら関係性にある。実際に認識できない関係性がはっきりと存在の側にある可能性がある。ひたすらに関係性を紐解いていったとき、初めてすべてが明らかになるのか。関係性のすべて…

その438

理論とは、部分的な合理性を意味する。部分的合理性とは存在にとって何を意味するのか。その全体にとって完全にあてはまることがない。全体が全体であるために、何がなされているのか。物質の運動がいかにあるか。仮に、あらゆる主体を疑ったとき、何かはそ…

その437

知らない、知っている。それは意識的か、意識的でないかに過ぎず、意識的に知らないことも知っているから、相応の対応ができている。だから、生きていられる。身体の内部で起こっていることについて知らなくても、相応にその外部と巧みにやりあっているから…

その436

知っていることは意識的に知られている場合と、無意識裏に知られていることがある。無意識に知っていることがあるから、確かに生きて存在できている。身体が私の意識がどうであるかとの関わりもなく、対する存在を相手に、さまざまに情報処理を行っている。…

その435

存在がいかにあるか、それが合理的であるかどうか、それは存在をどこかで区切ることで生じる認識にすぎず、認識とはその枠組み内で起こっていることに過ぎない。認識の枠組みをとっぱらえば、存在はそのすべてにおいて、自在に運動しているのであり、認識さ…

その434

存在がすべて合理的にあるわけではなく、ただ私たちが存在のすべてを合理的に認識したい。そんな欲求があるから合理性が私たちにとって意味の強さとともにあるのではないか。存在のすべてが合理的であるかどうか。それは本来、判断しようのないことではない…

その433

合理的でないことが起こっている。それは不合理だが起こっていてもおかしくない。すべてが合理的に起こっていれば、すべては理解可能だ。しかし、起こっていることのすべてを理解できるほどにすべてが合理的であれば、何も動かない。すべては動いている。そ…

その432

何かが起こるための順番は、AがBになることもあれば、BがAになることもあり、つねに片一方の方向へ流れて変化しているのではない。真逆もある。あるいは、可能性としてはCもある。もしくは、まったく起こったことのない現象が起こりうることもある。物質の運…

その431

その運動である万物は、そのどこまでを記号となって実在しているのか。それ自体がそれ自体であることがどれほどの時間、可能だろうか。りんごがりんごだとしても、どの瞬間のりんごも異なっている。あらゆるりんごのあらゆる瞬間は異なっているとき、りんご…

その430

事実とはつまり、そのすべてが言葉になっていない。あることを感じているとき、それがいかに感じられているか、そのすべてが言葉になることはない。事実はだから、言葉を超えたところにある。そのように感じられていることはまさにそのように感じられている…

その429

知っていることがすべて言葉になっているのではない。そもそも、知っていることとは何かを一概に定義することはできないのではないか。どうあれば知っているのか。言葉になったことを理解したとき、それは確かに知られている。知っている。しかし、言葉にな…

その428

まったく知らないとは、言葉になっていないだけで、関係していないことを意味するのではない。関係しているが知らないことがいくつもある。言葉になっていないだけだ。

その427

知らないことと関係しているのは事実。知らないからといって関係ないとは言えない。関係はしている。関係し、さらには意味をもったつながりを持っている何かが誰にも知られずに実在している。だれも知らないのだから、それが何なのかだれも知らない。知らな…

その426

よく分かっていないのに自己が確かに実在している。私は確かに生きているが、それがどのような実態かについて、どれほど知っているだろうか。一瞬、一瞬の私を措定すると、そのほぼすべてを知らないでいる。この場合、知っているとは、言葉になって知ってい…

その425

それ自体が認識体である何か。認識とはその外部の認識とともに、その内部の認識もまた認識である。事実であることを認めているとき、その時点で認識は成立している。何かがそこにあっても、その認識はその存在に関することのすべてではない。何かはつねに認…