その83

 存在とは、構築されていくのか、崩壊に向かっていくのか。崩壊へと向かう構築なのか。崩壊を間逃れるための構築か。枯れて落ちた葉っぱが土に変えるとき、葉っぱは崩壊へと向かっているが、葉っぱを受け入れる土は構築へと向かっている。葉っぱと土の境界は相互に触れえたとき、実在するだろうか。確かに葉っぱは崩壊しているが、土は作り替えられている最中であり、この違いは何か。現象としての構築が存在し、崩壊が存在することの証拠か。崩壊していく葉っぱは作り変えられていくための序章と考えられないか。葉っぱの崩壊は葉っぱの実在を認めえないことには始まらない。崩壊はそれがなくなることを意味するが、なくなることの意味は存在することの証左である。在るから崩壊する。在るからさらに構築されていく。構築も崩壊もただの変化だと捉えられないか。であれば、葉っぱの崩壊は様変わっている姿であり、次の瞬間には新しくなっている葉っぱはそれが崩壊しているように見えても、存在の流れのなかで次の瞬間へとの備えを構築していると考えられないか。次の瞬間にも葉っぱが実在するためにはその構築にないといけないと考えたとき、葉っぱが崩壊しているように見えようとも、その構築にあるといえまいか。

 見た目によって現実の現象をロゴスで規定するのが習いである私たちにとって、葉っぱが枯れて姿を変えていく様はその崩壊に見受けられるが、存在の流れのうちにある葉っぱは存在の中程で実在するための構築が本質にあり、姿が消えていこうとしていても、絶えざる構築にあるのではないか。構築していかないと次がない。崩壊に見える現象は私たちの認識による主観的構築ではないか。私たちは自らの認識を崩壊させながら構築していく。崩壊か構築かと問われるなら、構築である。