その81

 存在の原因が究極的に実在するのかどうか。何かが存在するときに必ず必要な何かがあるのか。これ抜きに存在は語れないといった事実は実在するのか。実在するかしないかを見出そうとするとき、実在するとしてもつねにしない可能性が除外できないのではないか。ある存在が存在の究極原因であると措定しても、可能性であることから逃れることはできない。事実か否かとの判断を迫られる事実に対して、絶対の確証で事実であると断言し、かつ、時間が経過しても覆らない事実の実在を私たちは認識できうるか。

 事実それ自体はつねに事実として実在する。私たちが知ると知らないとに関わりなく、事実は事実として実在する。私たちはその認識においてロゴスで捉えるとき、事実の全体に対して部分を抜きとり、静止させる。捉えた部分は物理的な運動の状態にあるのだから、静止はしない。ロゴスで静止させたのは事実の物理的な側面ではなく、事実がロゴスに置き換わったときに、ロゴスの物理的な側面として静止するに過ぎない。物理的に静止しているロゴスは、ロゴスと向き合った対象により、意味の運動が与えられる。外観上、静的なロゴスは動的な意味を孕んでいる。一個の意味だけをもつのではないロゴスはさまざまな外部の介入により運動をする。意味は一律ではない。

 意味はロゴスにのみ帰属する事実ではない。ロゴスが意味を持つのは存在に意味があるからではないか。意味があるから存在がある。存在があるからロゴスが意味をもって存在する。存在の意味を掘り下げていった結果がロゴスになる。ロゴスに意味がある以前に、存在の意味がある。いかなる意味をもった存在なのかはロゴスを紐解くのではなく、存在を紐解いていった先にできあがる。存在を捉えきることのできるロゴスはない。存在とはその運動であり、絶え間のない変容をロゴスに置き換えることはできない。ロゴスは存在についての概観でしかない。存在とはそれ自体のことであり、私たちの認識を凌駕したできごとである。