その95

 存在の流れのなかに場があることは何か。流れて動くなかに場を措定して認識することは可能なのか。措定された場はそれ以上の実在である可能性を孕む。措定された場とは私たちの認識の主観性により構築された領域であり、物理的に定まった領域ではないのではないか。場が在るとは、運動を止めた、認識される領域を表すのみで、実質的に、私たちの認識は一個のりんごに対しても不完全でしかないのだから、場といった限定性を完全に把握することはできない。動的なりんごをそのまま把握するために算出される数値は変動的であり、なん桁まで算出しても、微細にそれ以上の実数が潜んでいると考えることに妥当性がある。物質のありようを数値化するとき、変動する物質の状況を数に置き換えることは早晩、限界がある。算出しきるまえに、新しい数値になっている可能性から逃れられない。

 そのものはそのものの姿以上の何かである。数値に置き換えるとき、要素の還元によるが、要素もまたその要素の外部をふくむのではないか。であれば、一個のりんごであってもその内実を細かに表現することは不可能と考えられる。限定された要素は実質ではない。要素間の関係性がいかにあるかを紐解いていかないと、浮かび上がってくる実質はない。りんごとは存在の流れに組み込まれたネットワークのうちの一部であり、そのありようの全容の把握は不可能である。存在の流れの一切を捉え切るための器具が生み出されるとは考えられない。存在の流れの一切に接続する機材が実在するはずがない。存在のいかなるかはそのリアルタイムにおいて計測されなければないが、計測すること自体が時間を要する運動であるのだから、存在の流れと直結した完全情報を私たちが所有することはない。