2021-09-01から1ヶ月間の記事一覧

その326

存在に余白はない。すべてというすべてがぎっしりと意味で詰まっている。意味のない何かは存在しない。意味の一切ない何か、それは無だ。無には意味がない。存在すれば何であっても意味がある。意味のない何か、それは存在しないのだから、無である。無はそ…

その325

この世界の可能性とは、存在の物質の側にはないのではないか。私たちの思考する精神のうちにならいくらでもある可能性も、私たち不在の物質だけの世界では、起こり得る可能性といった概念が実在するだろうか。物質はその変化にあるのだから、それを思考体と…

その324

起こっていることのすべてを知ることは到底できない。何かが起こっているのか、その全容がまず分からない。有限の全体はあるのだろうが、それがどこまでの広がりにあるのか、まるで分からないのだから、起こっていることのすべてを知ることができるはずもな…

その323

実際に起こっているのに可能性でしかないことは、起こっているのに知ることができないことと考えることができる。起こっているのだから可能性ではないともいえるが、知ることができないから可能性なのだ。

その322

不自然なことが起こることがあるのか。何かが起こればそれは未知の法則も含んだ物理的な現象として起こっているのではないか。それがどういう理由で起こっているか、分かることと分からないことがある。分からないことは分からないだけで、その理由がないの…

その321

存在が認識内だけにあるのではない。認識外にも存在することで認識内にも存在する何かがある。存在しているものにおいて、他の何かがどこまで必要なのか。それ抜きでも存在するものは多いはずだが、しかし、現に存在は一通りの仕方である。それ抜きで存在す…

その320

認識外存在は認識内にはないのか。認識内にあることは認識外にあることとの関連にあり、認識外に存在する何かしらがなければ存在しないと考えられる。時間軸を投じて認識内存在を把握するなら、その存在は運動にあり、認識された瞬間以降、存在が関わろうと…

その319

認識はその主体により存在に対してフレームを与える。いかなる認識もそのフレーム内にある。現実はその外でも起こっている。認識が与えたフレームは存在の全体ではない。存在の全体とはそのあらん限りであって、けして認識が与えたフレームの内部で完結する…

その318

何かに対する認識が完全なるものではないのなら、その認識は成立していないことになるのか。認識の成立はその過程においても実在すると考えられるのか。何かを知るとは何か。知っているとは何か。認識不完全にりんごを知っているとき、それはりんごについて…

その317

カオスとはあくまでも私たちの認識内において起こる現象であり、そこでは次の瞬間が予期できないのではないか。順番がない。本来はその順番を知らないことが多くあるなかで、秩序はその順番をもっている。それもまた私たちの認識内において起こることだ。認…

その316

現実とは何か。起こっていることの総体か。起こっていることのほどすべてを知らずに生きている。無意識に感じていることがあるかもしれないが、そのことに自覚的ではない。自覚しない何かを知っているとするか、知らないとするか。 存在するものすべてが現実…

その315

何かがある。それはあるが、それだけがあるのではない。それがあるというのは、それがあると焦点を絞るからで、認識しようとするから、それがあることになるが、それだけがあるのではなく、その他のもののそれぞれが主体となって実在している。それぞれが主…

その314

Aは存在しない。Aだけが存在することがないからだ。Aの実在について、可能にしていることがAにあり、かつ、その関わりXにある。動的なXは存在のすべてではない。Aの関係項であるXは Aを含む。AがあるからXがあるのか。XがあるからAがあるのか。いや、Aを生み…

その313

何かがそれ自体として存在するには、存在の流れの中にその骨格を持たないといけない。かつ、その骨格は流れに適応しながら姿を変えていかねばならない。骨格とは存在の皮膜を意味するだけではない。その内部の結果が皮膜を作っている。どこまでが骨格なのか…

その312

りんごがりんごであるための骨格はむろん動的だが、それ自体であり続けている。動きながらも失われることのないりんごの骨格はその維持のためにりんごの内部のあり方に依存していると考えられるが、内部だけではない。りんごの外部もりんごの骨格が失われる…

その311

存在はそれがなんであっても外部依存性がゼロということはない。常になんらかの意味で外部に依存している。その時、何かの内部はその外部が同時に組み込まれた実在ではないかと考えられる。一個のりんごが純粋な内部循環だけでできているのではない。内部循…

その310

関係していれば、それは個別化している。関係しているか、してないないか。ある瞬間を取り出せば、そのいずれかでしかないが、ある瞬間を取り出した状況とは私たちが認識をすることを意味する。認識とは、存在の流れから、ある部分を取り出すことを意味する…

その309

認識が透明であること。それは、実在する認識がその枠組みを超えていることを意味する。枠組みを超えた認識とは、非形式的認識であり、形をもたない認識のこと。形を持たない認識にはそれでもその姿があるのか。認識とは存在の全体にわたって実在するわけで…

その308

それが何であっても、それがあることはそれ自体により明かされているのだが、その事実は他の何かによって把握されることで事実となる。事実とは何か。いかに存在するのか。それがあることだけでも事実だが、それがいかにあるか、認識されたこともまた事実で…

その307

理解された何かがある。それは理解した。しかし、その次があるものではないか。認識途上性。私たちの認識はその連関に本質があるのであり、さらなる現象との関連を紐解かないといけない。認識に全体はあるのか。何かを認識しようとして、その全体があると結…

その306

何かであること。それはいかなる現象なのか。結果なのか。プロセスなのか。人間の身体はその全体のうちに細部がある。細部というよりか、メッゾの領域がある。心臓、肝臓、脳髄など、身体全体とって、細部ではない、中間領域のような、つまりはメッゾの領域…

その305

それが何であっても、それが存在する限り、それ自体が主体となったうえで、なんらかの認識を持つものだろうか。生命だけがもつのが認識ではないのかもしれない。それは何でもいい。存在にまつわるなにかを知るなり、感じるなりしていれば、それはすなわち認…

その304

存在している物事のうちには認識内にあるものと認識外にあるものがある。認識場は認識外の存在の影響を受けるが、認識外の存在からの影響を受けた認識場における認識内存在のうちに認識外存在がすでに含まれると考えられる。存在において、それが認識内なの…

その303

認識といった一個の空間があるのではないか。認識された何かが入っている空間があり、それはそれぞれが一個の主体となり、その総合された場が空間内にあると考えられないか。認識場とでもいおうか。認識場は一個の実在だが、時空間において、それぞれ個別に…