2021-01-01から1年間の記事一覧

その318

何かに対する認識が完全なるものではないのなら、その認識は成立していないことになるのか。認識の成立はその過程においても実在すると考えられるのか。何かを知るとは何か。知っているとは何か。認識不完全にりんごを知っているとき、それはりんごについて…

その317

カオスとはあくまでも私たちの認識内において起こる現象であり、そこでは次の瞬間が予期できないのではないか。順番がない。本来はその順番を知らないことが多くあるなかで、秩序はその順番をもっている。それもまた私たちの認識内において起こることだ。認…

その316

現実とは何か。起こっていることの総体か。起こっていることのほどすべてを知らずに生きている。無意識に感じていることがあるかもしれないが、そのことに自覚的ではない。自覚しない何かを知っているとするか、知らないとするか。 存在するものすべてが現実…

その315

何かがある。それはあるが、それだけがあるのではない。それがあるというのは、それがあると焦点を絞るからで、認識しようとするから、それがあることになるが、それだけがあるのではなく、その他のもののそれぞれが主体となって実在している。それぞれが主…

その314

Aは存在しない。Aだけが存在することがないからだ。Aの実在について、可能にしていることがAにあり、かつ、その関わりXにある。動的なXは存在のすべてではない。Aの関係項であるXは Aを含む。AがあるからXがあるのか。XがあるからAがあるのか。いや、Aを生み…

その313

何かがそれ自体として存在するには、存在の流れの中にその骨格を持たないといけない。かつ、その骨格は流れに適応しながら姿を変えていかねばならない。骨格とは存在の皮膜を意味するだけではない。その内部の結果が皮膜を作っている。どこまでが骨格なのか…

その312

りんごがりんごであるための骨格はむろん動的だが、それ自体であり続けている。動きながらも失われることのないりんごの骨格はその維持のためにりんごの内部のあり方に依存していると考えられるが、内部だけではない。りんごの外部もりんごの骨格が失われる…

その311

存在はそれがなんであっても外部依存性がゼロということはない。常になんらかの意味で外部に依存している。その時、何かの内部はその外部が同時に組み込まれた実在ではないかと考えられる。一個のりんごが純粋な内部循環だけでできているのではない。内部循…

その310

関係していれば、それは個別化している。関係しているか、してないないか。ある瞬間を取り出せば、そのいずれかでしかないが、ある瞬間を取り出した状況とは私たちが認識をすることを意味する。認識とは、存在の流れから、ある部分を取り出すことを意味する…

その309

認識が透明であること。それは、実在する認識がその枠組みを超えていることを意味する。枠組みを超えた認識とは、非形式的認識であり、形をもたない認識のこと。形を持たない認識にはそれでもその姿があるのか。認識とは存在の全体にわたって実在するわけで…

その308

それが何であっても、それがあることはそれ自体により明かされているのだが、その事実は他の何かによって把握されることで事実となる。事実とは何か。いかに存在するのか。それがあることだけでも事実だが、それがいかにあるか、認識されたこともまた事実で…

その307

理解された何かがある。それは理解した。しかし、その次があるものではないか。認識途上性。私たちの認識はその連関に本質があるのであり、さらなる現象との関連を紐解かないといけない。認識に全体はあるのか。何かを認識しようとして、その全体があると結…

その306

何かであること。それはいかなる現象なのか。結果なのか。プロセスなのか。人間の身体はその全体のうちに細部がある。細部というよりか、メッゾの領域がある。心臓、肝臓、脳髄など、身体全体とって、細部ではない、中間領域のような、つまりはメッゾの領域…

その305

それが何であっても、それが存在する限り、それ自体が主体となったうえで、なんらかの認識を持つものだろうか。生命だけがもつのが認識ではないのかもしれない。それは何でもいい。存在にまつわるなにかを知るなり、感じるなりしていれば、それはすなわち認…

その304

存在している物事のうちには認識内にあるものと認識外にあるものがある。認識場は認識外の存在の影響を受けるが、認識外の存在からの影響を受けた認識場における認識内存在のうちに認識外存在がすでに含まれると考えられる。存在において、それが認識内なの…

その303

認識といった一個の空間があるのではないか。認識された何かが入っている空間があり、それはそれぞれが一個の主体となり、その総合された場が空間内にあると考えられないか。認識場とでもいおうか。認識場は一個の実在だが、時空間において、それぞれ個別に…

その302

意識的に選択をせずとも、結果的に何かが決まっていく。自らの生きる道程において、とにかくいろんなことが決まっていく。存在する者として、一瞬、一瞬、結果を出し続けている。そのことに自覚的であるか否か。自らを基軸に考えて、導き出された結果は、そ…

その301

人間が永遠に生きられる保証はどこにもない。その時点で、世界が人間のために作られているのは完全な誤りとなる。人間のために世界が作られているのなら、なんの苦労もなくてもおかしくないが、生きているとどうにも不都合が多い。自然とは存在するものごと…

その300

変化があって、その変化が人間の都合に合わないときがあるのもまた自然ではないか。人間の都合に合うようにきちんと変化していくことはむしろ不自然に感じる。まかりまちがっても人間のためだけにできた世界ではない。なんとか生きている。生きることができ…

その299

地球上の存在のみを自然と呼ぶわけにはいかないのは、太陽が自然であると感じられるからだ。太陽は地球の外にあるが、私たちにとっての自然であるといった感覚がある。私たちの身体や他の生命もまた太陽からの影響の元にその自然たりえている。つまり、太陽…

その298

夏が何度なら自然なのだろうか。都合が悪くなったら、それは自然ではないというつもりか。2度3度4度あがったことで、おかしなことが起こっていると決めつけるのか。どっちがおかしいか、考えたほうがいい。 自然は中立であり、敵でも味方でもない。そのよ…

その297

海が自然だ。山が自然だ。浮かんだ雲が自然だ。ならば、その根拠は何か。人間も自然だ。ライオンも自然だ。トナカイも自然だ。何でも自然じゃないかと言いたくなるが、どうやら自然ではないものがあるらしい。それは何か。人間が栽培した野菜はすべて人の手…

その296

起こっていることだけが認識されるだろうか。起こっているが永遠に認識され得ない側面がどうやっても実在することを避けることはできないのではないか。常に何かを知らない。何かについて知ろうとしたとき、仮のその全体の像があったとしても、その把握はで…

その295

意図しない現象が起こって、それが個人に影響を与えたとき、それは偶然起こったことと捉えられるが、純粋に存在の側から捉えなおせば、起こったことはその道理にあったのではないか。意図して起こると想定されたことの外にも、あることが起こるときの原因が…

その294

自然は地球上にしかないのか。月は自然か。かりに月が自然ではなければ、自然を完全に定義しなくてはならない。自然とはこういうものだから、月は自然ではないという必要がどうしてもでてくる。言葉でどうのとやっていれば、本来的にそうすべきかどうか定か…

その293

人間がいない世界では何が起こっていたか、起こることになるか。人間がいることが自然を奪っているだろうか。人間がいない世界はそのすべてが自然だろうか。人間の活動は自然ではないのか。人間の活動だけが特別で、自然から逸脱しているのか。逸脱できるだ…

その292

自然ではないことが起こっているのか。起こっているなら、それは完全に自然ではないのか。自然ではない何かがどのようにして実在可能か。存在はそれが何であっても即自然ではないか。人間が生み出した現象はその始まりが自然であり、その帰結もまた自然では…

その291

力は計測できるものとそうでないものに別れる。それはある。確かにあるが、認識外にあるとき、その計測はされない。計測されないからといっても、それが力として実在する限り、その力を認識不能の認識主体へと働きかける。関係のあることを知らない。いかに…

その290

そこことについては何も知らない。本当に知らない。しかし、そのこととは関係しているかもしれないし、関係していることで生きていることができている可能性がある。まったく知らないことに支えられて生きているとき、自分で判断して生きている感覚が薄まっ…

その289

認識外にも現実がある。完全に知らないことがいくらでもある。何を知っていないかをまるっきし知らない。あることについて知らないのではない。一度たりとも意識にのぼったことのないことが現実として存在している。理解したか、していないか以前の話である…