その307

 理解された何かがある。それは理解した。しかし、その次があるものではないか。認識途上性。私たちの認識はその連関に本質があるのであり、さらなる現象との関連を紐解かないといけない。認識に全体はあるのか。何かを認識しようとして、その全体があると結論がでることはあるのか。実際に認識されるものはその対象からすると、わずかにでも遅れる。認識対象の動きはリアルタイムで変動しているが、私たちの認識は対象の動きと同時刻において捉えることはできない。見ているものとは何か。脳髄で処理された結果がどこかに映し出されているのを見ているような感慨にある。存在は巣は見えない。というか、存在の素は実在するのか。存在は何かに対してのその存在である。かつ、それ自体である。それ自体であるそのものはそのものとしては素だが、それがいかにあるかをその外部から認識なり、感じるなりして捉えないことには、それがいかにあるかがはっきりとしない。では、何によって認識されれば、存在の素を捉えることができるのか。それが素である確証をいかに得ることができるのか。翻って、認識された状況はすべてが真実ではないか。それは存在がつねに関係性のうえであることを意味する。関係性を離れて実在する何か。つまり、周囲が虚無である何かは存在し得ない。