その291

 力は計測できるものとそうでないものに別れる。それはある。確かにあるが、認識外にあるとき、その計測はされない。計測されないからといっても、それが力として実在する限り、その力を認識不能の認識主体へと働きかける。関係のあることを知らない。いかに関係があるかではなく、はなから存在しないかのような感覚でいる認識主体にとっても確かな実在がある。完全にそのことを知らないのに、完全にそのことに生かされているかもしれない。それがあるから存在することができているとしても、それが何なのかを知らない。知らないことはもちろんあるが、知らないことと直接に関わっていることを知らない。知っていることは知っているが、知っていることのいかなるかとは存在にあり方であり、構造であり、関係性のあり方であるとき、それを知っていると感じることができているのは、ある領域内における話に過ぎず、存在のあり方はその領域を超えてある。知っていることはだから、あるところまでの話であり、さらに話は続いていくはずで、続いていけばいくほど、関係性のあり方が明かされていくのではないか。一個のりんごがあっても、それがただそこにあるだけではない。りんごがある場がいかなる状況にあるかを考えたとき、その場を構成している関係性の構造がいかにあるか、どこまでの広がりにあるか、容易には知れない。計り知れない力のあり方をもとにりんごも存在を可能となっているはずだが、それは測ろうとすることで生じる不可解さである。かりに認識の一切を放棄したとき、それでもりんごはそこにある。いかにあるか、それはどうやってもその全容は知れない。知れないが、存在することは確かである。状況を認識しようとすれば、そのぶん、存在の仕方に変化があるかもしれないが、認識しようとしなくても、あるものはある。周囲とうまくやっていけさえすれば、何かはあり続ける。うまくやっていくために認識するともいえるが、私たちは、生きていくためのこと以上の何かを認識しようとしている。あるいは、生きていくこととは関係のない何かを認識しようとしている。文明とはこうした無駄とも思えることのうえに雑駁と築かれていくのではないか。何かが生み出されれば、その良い面、悪い面がある。進化しているのか、どうなっているのか、それは比べようがない。

 文明は存在する関係性のあり方をさらに複雑にする。ひとびとが寄り集まってできる社会が次第とそのあり方を複雑化していき、現在にいたる。どの時代がよかったか、それは比べようがない。ときどきでよしわろし。ただそれでも、複雑さは次第に増しているのは事実ではないか。関係性がいっそう複雑になることで何が起こるのか。むしろ、脆さが露呈することにならないか。構築された関係性によりできあがった都市は一個のシステムだが、少しの綻びで立ち行かなくなりかねない。相手はいつでも自然であり、理性で対峙しても、それは、コントロールできるものではない。改善はできる。あるいは、先読みできるならそれにこしたことはない。いくつかのコントロールが自然に対して可能ではあるが、自然の総体、つまり、起こることが起こるといった自ずからそうであることについては、どれほどの認識も到達しない何か途方もない力にある。地球環境はその総体である。認識外にそのあり方がある。一部を操作することで、総体への影響が確かにある。そのとき、壊滅的な影響を人為的になしてしまえば、破綻もありえる。関係性にしばられている万物の関係性のあり方は私たちの認識を超えている。認識できていない部分が必ずあるにも関わらず、自ずからそのようにあるそうした自然を操作するべきではない。