その305

 それが何であっても、それが存在する限り、それ自体が主体となったうえで、なんらかの認識を持つものだろうか。生命だけがもつのが認識ではないのかもしれない。それは何でもいい。存在にまつわるなにかを知るなり、感じるなりしていれば、それはすなわち認識と呼べないか。捉えて、なんらかの判断を下している状況を認識と呼べないか。それ自体がそれ自体であることはそれ自体によって行われているのであり、水が水であるのもまた水であろうとすることに原因がある。水が水であるためには、何らかの認識がなされなければならないのではないか。ただあるといった状況が存在しない限り、つねにその周囲との連続にある。意識するかしないかにより、認識しているか、していないかの違いがあるかもしれない。しかし、私たちの身体は無意識に動いているが、正常に活動するためにはそれぞれが認識をもとに作動していると考えるのが妥当ではないか。であれば、意識せずとも認識の実在は成立するのであり、無意識のうちに行われている認識は実在するが、果たして、水は無意識をもつ存在なのか。無意識は意識をもつ存在において実在すると考えるのが妥当で、意識を持つか持たないかがはっきりとしない水が無意識をもつかどうかはわからない。わからないが、水はそれがただあるだけではない。さまざまな作用の過程にある。その変化は存在を何かしらの機能で捉えて処理していると考えられる。であれば、水もまた認識を持つと考えられないか。水が水であることも自らで水であり得るために認識を持っていると考えられないか。自ら水であるための認識は自らの内部における何かでもあり、かつ、水が水でありつづけるためには、水ではない何かともやっていかないといけない。水が水であるために水はいかなる認識をへたうえで、水であり得ているのか。