その295

 意図しない現象が起こって、それが個人に影響を与えたとき、それは偶然起こったことと捉えられるが、純粋に存在の側から捉えなおせば、起こったことはその道理にあったのではないか。意図して起こると想定されたことの外にも、あることが起こるときの原因が必ずある。だから、偶然的な現象が起こる。純粋存在において、起こっていることはその道理にある。いうなればそれは必然か。純粋存在はすべてが必然的に起こっていると捉えることができるのか。すべては必然というときがあるが、そのことか。確かに偶然起こっていることはある。それは私たちの精神のうちにおいて偶然なのであって、純粋存在のみが実在するとしたとき、その偶然もまた必ず私たちの精神を媒介として起こる現象であり、その必然にある。純粋存在のうちに私たちの精神はいかにあるか。純粋存在の一部である私たちの精神は存在の必然性と完全に連続しているのか。存在について考えるときに、存在をどこまで純粋に捉えることができているか。精神のフィルターを通すことで、純粋存在に偶然の現象が混ざり込み、すべてが必然的にそのように関連しながら動いていることをそのまま捉え切り損なっていやしないか。

 知るべきなのは、存在の関連性である。偶然そう起こることはない。精神を媒介としない認識が持てるとき初めて存在のすべてが必然的に動き始めるのではないか。すべてがフラットで透明なあり方のもとに運動しているのであり、そこに意味づけをするのが人間ではないか。意味づけされた何かはその重みとなり、私たちの精神に働きかける。精神とは純粋存在に色彩を与えることでその成立にあるのではないか。色眼鏡をかけた私たちは純粋存在を垣間見ることができるのか。存在の連動により実在する世界において、起こっていることは相互に関連づきつつも断ち切ってもいる。断ち切られることでその先にいける。関連づくことでその先にいける。存在はその先に向かうために他と関連しつつも関連を断ち切ってもいる。何かが何かと関連したとき、同時に何かと関連する可能性を完全に失っている。その時の何かはその時にしかない。その時のそれと関連することができるのはその時しかない。ある時刻において関連が生じたとき、その関連とは非関連も含む。非関連とは関連において生じた現象の影である。裏といってもいいのかもしれない。過去から現在へ向けて様々な可能性が紡がれているとしたとき、そのうちのどれかが現実になる。他も可能性としてあった。可能性としてあったことが実現したことの裏で失われた。失われた現象は存在のうちにその影としてあると考えることができないか。