その308

 それが何であっても、それがあることはそれ自体により明かされているのだが、その事実は他の何かによって把握されることで事実となる。事実とは何か。いかに存在するのか。それがあることだけでも事実だが、それがいかにあるか、認識されたこともまた事実である。事実それ自体が私たちの認識のうちでもつれている。それ自体がある事実と、それ自体がいかにあるかを認識したことで現れる事実には乖離がある。認識とは枠組みを理解することであるとき、それ自体の物質的な実情の一部始終が事実であるとすれば、それらは相互に異なった状況にある。つまり、事実といった言葉において意味することが、幾層に別れた状況にある。もつれている。別れた状況が完全に別れているのではない。事実とは何かといった問いである点においてはつながっている。つながっているが別れている。だから、もつれている。

 かりに認識を取っ払うことができたなら、物事はいかにあるのか。ただあるがままにあるとしか言いようがない。いや、言いようがないというか、何かしらであると言ってしまえば、認識のうちにあることを意味する。何かであるが、何かとして捉えることなくその実在を認めることは可能か。ひたすらなる関係性を紐解き、その流れとひたすら同期することができるなら、透明な認識をもつことができないか。