その301

 人間が永遠に生きられる保証はどこにもない。その時点で、世界が人間のために作られているのは完全な誤りとなる。人間のために世界が作られているのなら、なんの苦労もなくてもおかしくないが、生きているとどうにも不都合が多い。自然とは存在するものごとのすべてであり、存在するものごとのすべてと関わって生きていると都合が悪いことが起こってもなんら不思議ではない。都合よくなんとか生きていることができているが、それが永続する理由はどこにもない。存在する物事のあり方は流転していく。適応するしかない。変化は自然に起こっていく。

 人間の都合のいい領域内にのみ実在することはできない。生きていくためには私たちの生活領域を変えていく必要がある。私たちは私たちの生活領域のなかでしか生きていくことができない。つまり、選択的実在というわけだ。適した生活領域を選択し生きている。都合の悪いところでは息すらできない。選択可能であるところに救いがある。

 世界が始まってから随分と経ってから人間は地球で生きている。その意味で、人間は普遍的存在ではない。存在における断片ではないか。存在を貫く一本の筋のような何か、それを普遍と呼ぶなら、その範疇にはないのが人間ではないか。自己意識を持つことになった人間はその意識を拡張する傾向にある。それをそのまま妄想と呼んでもいい。妄想か、卓越した想像かは、紙一重である。現実に落とし所があるかないか。それはそのまま生存に関わってくる。選択的実在である私たちはその選択を誤ってはならない。というか、その選択をうまく行うことはさほど難しいことではないのかもしれないが、その選択を行っていくことそのことに難がある。頭のなかにおいて、すでに選択の正しさがあるとしても、それを実行にうつすことが難しいのだ。頭の中に正しさがあることと、それが実行されることには大きな隔たりがある。選択とは、考えているだけではその意味を半分しかもたない。実行されてこそ、その意味がある。選択的実在である私たちはその自覚を強くもつべきなのかもしれない。日常に溶け込んでしまっている選択行為はさほど意識されないかもしれないが、実質的にその選択行為が極めて肝心で、各人の実在において切実な意味をもつ。