その296

 起こっていることだけが認識されるだろうか。起こっているが永遠に認識され得ない側面がどうやっても実在することを避けることはできないのではないか。常に何かを知らない。何かについて知ろうとしたとき、仮のその全体の像があったとしても、その把握はできない。できないのであれば、いかなる個物も完全に認識され得ない。関係性の網の目のなかにある個物はそれ自体のみを観察するだけでその実態が明らかになるものではない。その関係する領域すべてを捉えた上で、その認識となる。認識不完全な実在がある。それは認識上不完全なだけで、存在としては完全である。あらゆる実在は真実である。言葉にすること、認識することがなければ、完全も不完全もない。ただあるものがある。そのようにあることのどこに偽りがあるだろうか。つねに作り変えられる存在はいつまで経っても完成しない。動的なバランスをとっている。何かがあること。あるいは、それを自然と呼んだとき、自然とは私たちにとって敵でもなければ味方でもない偶然的な実在として私たちと向き合っているのではないか。自然とそのようなことが起こっている。確かに、水をポットに入れて沸かすと沸騰する。それは自然を操作したことになる。その規模を拡大すれば、気候を操作しようとすることになるが、ある部分だけを局所的に操作することと、自然のシステムの広がりに大きな影響を与えるような操作は、土台、自然についてその全容を把握できていない、不可能な地点から行うことはどうだろうか。地球が壊滅しても自然は残る。何かがある限り、自然は消え去らない。