その306

 何かであること。それはいかなる現象なのか。結果なのか。プロセスなのか。人間の身体はその全体のうちに細部がある。細部というよりか、メッゾの領域がある。心臓、肝臓、脳髄など、身体全体とって、細部ではない、中間領域のような、つまりはメッゾの領域がある。それらを集めて全体としての私である。構造をその全体から紐解くと、その関係性について考えないといけない。関係の広がりを最大限まで捉えたとき、それがたとえば、身体の全体像か。目に見えている身体はその全体ではないのかもしれない。というか、ある意味においては全体である。それは、その身体との関係性を紐解いていけば、その広がりにおいて存在するものはその身体にとって、必ずしもそうでなければならないものではないからだ。別の何かでもいいが、さしあたり、偶然にもそうであることが身体と関係しているのである。身体もまた、その構造のうちにあるものがその細部においてそうでなければならないのではない。他の状態でも身体にとっては適していることも考えられる。全体性について紐解いていったとき、それは運動の状況にあり、絶対を排する状況にある。偶然の関与が必ずある。身体が機能するためには最低限必須の状況はある。それは具体的にここで述べることはできないが、身体が存在するための必須の状況があるのは確かだ。

 身体が身体であるために必須であることの実在は、身体内部において存在し、かつ、身体外部にもまた必須の状態がある。身体が機能をもったうえで存続するためには外部環境が適していることが欠かせない。内部においてもそうで、内部状態が身体機能に適した状態をそれ自体として保つよう動かないといけない。その時、外部からの影響があり、その外部はすでに内部である。身体内部とはすでに身体外部であるといってもいいのではないか。透明な身体が情報空間において、ひたすらなる処理系として実在するイメージがある。実際にそうだ。身体とはその枠組みとして実在するが、その内実は絶えざる運動であり、その交換性が実質ではないか。身体においては、たえざる入れ替えが行われているのではないか。止まるところを知らない身体の交換性において、何かが確実にそのようにあること自体が実在するだろうか。つねに他の姿であるとイメージされる身体は、私たちが認識しようとするから、そのようにあると感じられるのかもしれない。実際はすべてのものがそのようにある。それがいかにあるか、認識に置き換えたときに、そのようにあることをそのまま捉えられず、その姿の実質ではなく、その実質を捉えるための過程止まり。途中まで知っているとしても、それは本当のことを知ったことになるだろうか。私たちの知っている存在のあり方は私たちの認識内においてその途上であるばかりで、実質はいまだ何も解っていないのではないか。