その312

 りんごがりんごであるための骨格はむろん動的だが、それ自体であり続けている。動きながらも失われることのないりんごの骨格はその維持のためにりんごの内部のあり方に依存していると考えられるが、内部だけではない。りんごの外部もりんごの骨格が失われることなく実在するために、その適した状況が必要と考えられる。りんごがりんごであるためにはりんごの内部、りんごの外部が適した状況にあることが求められる。りんごの内部がその骨格のために適するためには、りんごの外部が適した状況でなければならない。内部は即外部である。外部は即内部である。透明なりんごはなぜその骨格を維持できているのか。透明な骨格というよりか、存在の流れに寄り添ったあり方であることがりんごの骨格の維持を可能としている。それが何であっても、それ自体が主たる認識主体となり、存在の流れがいかにあるかを読み、かつ、処理しながら、それ自体であろうとしている。それ自体であろうとする力が働いていること。それは内向きの力ばかりではなく、外部へ発散も行われているはずであり、情報を取り入れつつそれ自体であると同時に情報を捨てながらもそれ自体であるのではないか。結果的に毎瞬間、それ自体であるのだが、その結果を導いていく動きがある。内へと外へと向かっていく情報が結果的にどうなっていくかがそれぞれのりんごのあり方である。個別の実在に着目し認識を行うわけだが、認識のくびきをとっぱらえばいっさいは存在の流れのうちに飲み込まれていると考えられる。認識するから限定されるが、認識といったフォーカスをとっぱらったときに明らかになってくる存在のあり方とは何か。いっさいは流れている。認識するとはそのうちのいずれかの部分を取り出して把握することを意味する。取り出した部分がその他といかなる関係にあるか。いったん取り出した部分を基軸にして考えることとは何か。認識には始まりがあるが、その始まりは認識しようとすることの始まりではない。認識のために取り出した部分が始まりとなるが、その部分の始まりはそのものではない。