その293

 人間がいない世界では何が起こっていたか、起こることになるか。人間がいることが自然を奪っているだろうか。人間がいない世界はそのすべてが自然だろうか。人間の活動は自然ではないのか。人間の活動だけが特別で、自然から逸脱しているのか。逸脱できるだろうか。人間だけが自然からどのように逸脱できるのだろうか。それはどのような姿なのか。存在の一切の中で人間の活動だけが自然から逸脱しているというのであれば、その事実がどこにあるのか、示せるだろうか。示せる示せないの話ではないのかもしれない。示そうと示さまいと、初めから決まっていることで、議論する必要のないことかもしれない。議論してはいけないのではないが、自然ではない何かがこの存在の中にあり得るのか。不自然と感じられるぐらいの現象があると思うことはあるかもしれないが、それはそのように感じているだけの話であって、単に、そう言葉に置き換えたに過ぎない。不自然と言葉にしても、それがそのまま自然ではないといった意味を持つわけではない。なんとなく、自然に感じないがどうなんだろうといった意味程度で、不自然といった言葉が使われることがある。言葉ではどのようにも表現できる。さしあたり、そのような言葉に置き換わっただけのこともある。言葉はどこまで真実なのか。そう述べられたといった真実がまずあり、それが述べようとしたことがその対象とどこまで整合的か。真実か。自然と自然ではないものがあるなら、これは自然で、これは自然ではないとはっきりと分けられるはずだ。自然ではないものがなぜ存在し、それがどのような意味から自然ではないというのか。自然ではないと仮に合理的な説明がなされたとしても、それは単に合理的なだけであり、論理のなかでの話の可能性がある。頭の中だけの話かもしれない。頭の中にある自然と自然ではないものが実際にそうであるかどうか、それを頭を使わずにどのように明らかにできるか。考えるのではない。感じるのでもない。ただそのようにあることそれ自体がすべてに当てはまらないか。存在している物事は存在の流れの中にある。存在の流れの中で相互にさまざまな影響を与え合っているもの同士、仮に、自然とそうでないものがあったとき、自然はそうでないものから頻繁に影響を受けているのではないか。逆もある。自然ではないものが自然からの影響を受けている。そうした中で自然とは何か。相互に影響を与え合うなかで、実在するものは自然性と非自然性を多かれ少なかれ持っていると捉えることが妥当に思える。であれば、純粋な自然はない。それは非自然的なものがあることを前提に考えてのことだ。自然ではない何かがあって、それが自然に影響を与えていることを考えると、存在のなかに自然がいっさいなくなってしまいかねない。実際にそうなのか。自然はどこを探しても存在しないのか。人間は自然の一部ではないのか。その身体が自然の流れのなかにあるなかで、自然ではない何からの影響にあるというのなら、人間はいつから自然ではなくなったのか。いつから自然のうちに自然ではないものを組み込んで営むようになったのか。それは自然をどのように定義するかによる。定義された自然は自然だろうか。定義され得ぬことを言葉にして知ることはできない。科学を超えたあり方にあるのが自然であり、捉えようのないことが確かにある、その状況を自然と呼ぶべきではないか。であれば、自然とそうでないものを分けることがそもそもナンセンスになる。ただあることがなんでもあっっても自然なのではないか。そのぐらいにしか言えない。だからこそ自然なのではないか。