その290

 そこことについては何も知らない。本当に知らない。しかし、そのこととは関係しているかもしれないし、関係していることで生きていることができている可能性がある。まったく知らないことに支えられて生きているとき、自分で判断して生きている感覚が薄まっていく。仕方のないことではないか。生きているが生かされてもいる。そのいずれでもある。生きていくために必要な情報が十全に出揃っているわけではないのは事実で、知らないことがあるなかで、なんとか生きている。生命はその適応を旨としているのではないか。生き残るためには周囲の環境に適応していくしかない。自然は目の前にある樹木や川や海だけではない。あるがままあるすべての存在が自然ではないか。いかに移ろっていこうと、それはそのようになった。そのようにならない可能性もあったかもしれない。しかし、そのように落ち着いたのは、それぞれの存在との関係性のうえで結果的にそのようになった。相互に浸透し反発しあっている存在には、私たちに感じとることのできない力が、透明な姿で働いている可能性がある。地球で起こっていることには関係性のベールがかかっているのではないか。はっきりとみえない膜がかかっているのではないか。一見するとそのようにあるように見えるかもしれない。しかし、それはそう思い込むような習慣になっているからで、見た目の感じから現実を推し量ろうとしてしまうのは私たちの陥りやしい落し穴だ。計り知れない力が働いているのが常で、自分が生きていることもまた計り知れない力による。