その548

一切の構造を持つことのない運動があるなら、いや、実際にあったとしても、認識はできないのではないか。もしくは、人工的な知能なら、存在世界における私たちの精神だけでは捉えきれない現実を捉えてくれる可能性がある。あらゆる構造から解き放たれた運動…

その547

物質が運動するその状況はけしてカオスではない。その振る舞いは構造的である。すべてはそれ自体が属する領域のうちにあるのではないか。何であろうと、存在するもののすべてと関わっているのではないのではないか。何かが属する領域を存在するものの分だけ…

その545

認識それ自体が現実を切断するが、切断された現実がそれ自体で意味をもつのは、切断されたままではないからだ。切断された現実に変数を与えることでその現実は動く。動くから意味をもつ。動き続ける現実は変数それ自体の変動とともにある。そこに形式として…

その544

動きそれ自体はつねに複数ではないか。複数あるから動く。むろんそれは認識内において複数なのであって、認識を取っ払えば、複数も単数もない。あるがままある。あるがままあるものが単数のはずはない。かといって、複数というのでもない。複数は単数をもと…

その543

何かが何かになることがある。その原因はつねに複数ある。原因複数性が事物の根源にある。原因が単一であることなど、ありえないのではないか。何かがあるとき、それは何かが起こっていることを意味する。何が起こっているか、それ自体は単一のことではない…

その542

何かが何かであるのは、何かであるからであるが、その第一原因が何かの外部にある。何かであるとき、その第一原因は選択することがないことがある。選択することのない偶発的な第一原因のもとにある何かが第二原因である何かそれ自体の根拠をもとに何かであ…

その541

蒸発していく水はそれ自体としてゼロになる。液体がすべて気体となったとき、液体としての実在性はゼロだ。何かにつけ、刻々とその変化にあるが、それでもさしあたりそれ自体としての姿にある。ゼロとなるまでその姿にある。液体が液体であることは言語によ…

その540

有における現象のどこかに境目があるのかどうか。ないなら世界は一本の線で貫かれている。すべてがつながっているなら、すべては一本の線で貫かれている。震える一本の線で貫かれた世界なのだろうか。一本でないなら、何本の線で貫かれているのだろうか。あ…

その539

何かが発生して、消滅するまでに、その何かは世界のすべてと関わりを持つだろうか。否、世界のすべてと関わりを持つことなく、持とうとして動いていても、その自然において消滅するのではないか。そこに境界がある。世界上に現れているすべてのうちから姿を…

その538

生命の現象が非生命の現象と関わっているとき、生命の現象は非生命の現象を含んでいる。生命現象が非生命現象を含んでいるとき、非生命現象は生命現象の一部である。そのとき、生命と非生命の境界は実在するのか。関わりのあることがそれ自体、いかにあるか…

その537

何かがあるのは、それがあり得たのであり、あり得るための環境がまず先にあって、そこにというか、その流れののうちに何かが出現した。出現した何か以前にそのための要因となる流れがあった。流れゆく万物のうちにさまざまな事象が発生していく。そのうちに…

その536

何かが何かであるといったことはない。何かとはつねにいかにあるかである。つねにいかにあるかである何かは、何かでありつつも、その状態が他の何かによってでき上がっている。何かとはその状態のことであるが、その状態がいかにできあがっているかを考えた…

その535

真実は多様にあり、その真実多様性が世界を動かしている。ある一個の現象について、いくつもの姿によって語られるとき、ある一個の現象についての解がいくつも多様にあることになる。そのいずれもがそう述べられたことにおいて真実である。ある一個の現象に…

その534

世界を感じたとしても、それがそのまま世界の真実かどうか。感じたことそれ自体は真実といっても差し支えないが、感じたことだけが真実なのではない。というか、感じたことは、感覚主体と世界の関係において真実なのであり、感覚対象である世界の断片がいか…

その533

事実が事実であっても、それが明らかどうかが定かでない現象をまえに、私たちは何を認識できるのか。認識として成立していることが可能性としてしかないとき、私たちは一切の認識を絶対的なるものとして持つことができない。事実はいつも事実かもしれないの…

その532

そのすべてとしてあるから実在可能なのかどうか、というか、単にすべてとしてある、そのことを世界と呼んでいるに過ぎない。世界は存在のすべてを含む。そう定義したとき、いったい何が詰め込まれているのか、その全容は誰の知るところでもない。確かに全体…

その531

理性界では思考されるが、世界そのものがそのように運動しているのではない。世界そのものがそのように運動していることとはまったく決別した場において自在するのが理性界ではないか。世界のことについて思考するその運動が内在される理性界は、世界それ自…

その530

私たちにとっての現実はつねに理性界のフィルターを通過したのちにある。純粋直感がそのまま現実となることはない。かりに純粋直感がそのまま現実であったとしても、それは理性界で精査された結果、現実となる。私たちの現実は、現実かどうか精査された結果…

その529

思ったことのすべてが現実のことであれば、どれほどのこととなるだろう。残念ながら、思うことのすべてが事実というのではない。そう思ったということは事実だが、それが現実に当てはまるかどうか、それはまた別の話で、精査していく必要がある。つまり、流…

その528

存在というものには、始まりや終わりがあるのか。存在することについてである。存在することについて、それがいかにあるか。それは一元的に述べられるものではないのではないか。存在となれば、それがいかにあるかは、いくつかの個別性に分かれているのでは…

その527

生命には生命現象の向こうとの関わりがあるのか。何かが生命であるとき、始まりがあり終わりのある生命現象に向こうと生命は関係を持っているのか。つまり、生命とは生命である以上の存在であるといった意味を持ち、それゆえに、生命には始まりと終わりがあ…

その526

永遠は永遠であるが故に永遠である。永遠とは、その終わりのなさである。つまり、無限である。果てがない。いや、実在上において果てがあるなしの話ではない。この世界に終わりがあるかないか、それは、この世界に運動があるかないか、完全に運動が消え去っ…

その525

事実はつねに期限つきだ。永遠の時間があるとき、たとえばいまある世界の次元が終わりを迎えることは十分に考えられる。いまあるような世界が永遠なる時間のうちに続くことは考え難い。まず先にある永遠を想定したとき、世界は非線形的にある。つまり、永遠…

その524

カオスはカオスのまま認識されない。カオスとは、どうあったとしても、私たちの認識内においてのカオスでしかない。認識外で何がどのように起こっているか、誰か知る人がいるだろうか。知っていることのみを知っている。それはすべて認識内における話に過ぎ…

その523

何かがあるからであり、何かが起こるからであり、何かが関係しているから言葉がその意味を持つのである。何も起こらなければ、いや、そんなことはない。何かが起こるから世界がある。何かがある。何かがあれば、何かが起こっている。そこへ認識主体が発生し…

その522

事実かどうか、それは関係がない。考えた過程のすべてが認識内にある。そのすべてが言葉になっているのではない。言葉になっていないことを知らないと言い切れるだろうか。言葉になったことの背後には言葉になっていないことが少なからずあるのではないか。…

その521

私たちはいつか認識の外側にでることができるか。どこまでも認識を拡張していくことの意味とは何か。拡張していった認識はいつか認識外と繋がるとのか。認識外とつながった認識は認識の拡張を意味するに過ぎないのか。認識外の認識とつながった認識はたんに…

その520

不純な認識を通じて捉えられている世界は、その本来においては純粋だ。世界が純粋でなくなったら、その存在はありえない。純粋であるが故に実在する世界をそのまま純粋に認識することはできない。私たちにとって世界はつねにどこかしら不純である。純粋でし…

その519

数式それ自体が捉えた運動は、ある構造的な運動ではないか。構造的な運動しか捉えることができないのではないか。認識の限界を示すことができても、それ以上、何が認識できないかを示すことはできない。 構造を持たない何かを認識できるだろうか。構造を持つ…

その518

認識は運動する。数式であってもそれは運動に合致することで実在している。数式は動かないというか、数式はある構造を示すのであり、それは単に、あるパターンのことではないか。数式が捉え切った世界の構造とは、そのようなパターンが実在していることを意…