その528

 存在というものには、始まりや終わりがあるのか。存在することについてである。存在することについて、それがいかにあるか。それは一元的に述べられるものではないのではないか。存在となれば、それがいかにあるかは、いくつかの個別性に分かれているのではないか。存在するものにおいて、何かはそのように現象するが、他の何かはまたそれ自体としてそのように現象する。その実際を分析してみたい。単に、存在するが、始まりと終わりのあるものと始まりも終わりもないものに分けて捉えることは可能か。いや、可能ではない。始まりと終わりがあるものは認識可能だ。始まりも終わりも見届けることができる。しかし、始まりも終わりもないものをどうやって見届けるのか。その終わりもなく、永遠に存在し続けなくてはならない。世界が終わった瞬間に認識主体もまた同時に消滅すると「考えられる」が、それはそう考えられるだけの話であって、事実かどうか、いかに認識することができるか。永遠の向こうにはいけない。いや、私たちの実在はつねに永遠以前でしかない。生命である限りいつしか消滅する可能性にある。それでも何かがあることは続くかもしれない。認識主体なき世界もまた確と存在する。僅かにでも何かがあれば、あり続ければいい。そこにいかなる認識主体の実在もないとき、世界はあるが、極めて純粋にただあるに過ぎない世界がそこにはある。どんな可能性についても考えられることがなく、そこでは「起こったことから明らかになっていく」。流転していく世界はその流転によって刻一刻と世界を明らかにしていく。それを認識していく主体が実在しなくても、起こったことは明白な事実となり、認識主体なき世界はそれでも自らで自らを暴いていく。

 世界が終わって、それを終わったと認識することができないとき、世界の終わりを認識することのできる主体はどこにもない。世界が終わったかのようにさまざまに滅びても、なお、世界は僅かにでも残っていることも「考えられる」。思考可能性それ自体、つまり、「考えることのできる可能性」が消え去れないとき、私たちは、何が実際に起こっているのかを肌感で捉え切ることができない。「考えることのできる可能性」とは妄想的だが、そのような妄想か現実において欠くことのできない実質かどうか定かではないが、いずれにせよ、「起こったことをそのまま純粋に、そして間違いなく捉え切れている絶対的な確証を手に入れる」ことを自然と行うことはできるか。いかなる思考の邪魔もない純粋直感が永遠的絶対となるならよいのだが、いかにして達成可能か。