その523

 何かがあるからであり、何かが起こるからであり、何かが関係しているから言葉がその意味を持つのである。何も起こらなければ、いや、そんなことはない。何かが起こるから世界がある。何かがある。何かがあれば、何かが起こっている。そこへ認識主体が発生したとき、世界に意味が生じる。認識それ自体が実在しないとき、世界には意味があるのかどうか。意味とは言葉にだけ内在されているのか、それとも、ただ何かがあればそれは認識されずとも、意味をなしているのか。意味とは何か。存在するものそれぞれが秘めている何か、それはそれぞれの認識主体にとって生じる何かなのか。存在はただあるだけではない。ただあるだけではすまされない何かを意味と呼ぶのだろうか。いや、ただあるだけではない何かなので、すべてに意味がある。存在する限り、それがなんであっても、ただあるだけではないのだから、意味がある。意味とは言葉があるから生じるものではない。何かがあれば、その意味がある。どんな意味か、それは認識主体による。いや、認識しようとせずとも、何かと何かが反応した結果において意味が生じる。何かだけがあることはあり得ない。何かがあるためには少なくとも何かと何かが必要となる。そのとき、そこで何かしらの反応が起こる。そこの意味がある。しかし、そもそもにおいて、何かがあることそれ自体が反応を秘めている。何かとは単一にあるように考えられたとしても、そのうちには複雑な現象が秘められているのではないか。そのとき、何かが単一にあることは否定される。何かがあることとはただ、関係性それ自体があることで、それ自体が複雑な意味を持っている。あらゆる意味は私たちにとって複雑なのかもしれない。言語の構造により単純化されて表現されたことも、それ単に、言語の構造上、そこでいったん区切りがついたにすぎない。実際にはさらなる関係の上にあるはずだ。言語的に閉じていることが実際の意味においてそこで閉じているかどうかは、よくよく考察しなければ、明らかとはならない。合理的であることが合理的だからといっても、そこで意味が終わっているのではない。ただ単に、合理の枠内に収められたに過ぎない。実質的には、存在が持つ意味は、合理性を超越している可能性がある。私たちは認識主体として存在と向き合うとき、つねに、言語由来の合理性を超越する可能性について考えなければならない。言語のもつ合理性とは認識に限界をもたらす。むろん、合理性が認識を促す側面はあるが、一方で、合理性が認識に限界を設定してしまいかねない。現実の実質がカオスであるとき、カオスをカオスのまま認識する機能を私たちは持っているだろうか。