その520

 不純な認識を通じて捉えられている世界は、その本来においては純粋だ。世界が純粋でなくなったら、その存在はありえない。純粋であるが故に実在する世界をそのまま純粋に認識することはできない。私たちにとって世界はつねにどこかしら不純である。純粋でしかない世界を不純にしか認識できないとき、世界は純粋なのだろうか、不純なのだろうか。その両方が成立する。私たちの実在は世界内存在であり、世界でまさに起こっていることだ。世界で起こっている私たちの認識それ自体は、世界で起こっている現象のうちにある。世界は純粋であっても、私たちの認識それ自体における不純さを内包している。その時、私たちと世界の間にある不純さそれ自体が世界それ自体にとっては純粋さとなる。私たちと世界のあいだにある不純さは純粋なのだ。世界は純粋に私たちの不純な認識を抱え込んでいる。不純であることが現実の私たちの世界認識は、世界が私たちに用意した不純さとともにある。世界がそのようにあることで、私たちの認識の限界が実在するし、私たちがそのようにあることで、世界は私たちにとって、完全な姿で見えてこない。世界それ自体という全体の像に原因があり、同時に、私たちの認識機能の限界に原因があるのが、世界のあり方であるが、それはすべてが認識内における現象なのではないか。認識内で不純な世界も認識外では純粋である。私たちの不純さを含んだ世界がいかにあるか。それは単に、私たちが世界をいかに認識しようとしているかに関係しているだけの話なのではないか。世界は純粋だろうが、その純粋さを永遠の知ることはできない。ただひたすら認識内において実在し、それを現実と思うことで存在するしかないのが私たちで、いくらかでも認識は拡張され続けていくが、それはただ拡張されたに過ぎない。