その548

 一切の構造を持つことのない運動があるなら、いや、実際にあったとしても、認識はできないのではないか。もしくは、人工的な知能なら、存在世界における私たちの精神だけでは捉えきれない現実を捉えてくれる可能性がある。あらゆる構造から解き放たれた運動は、それ自体がいかにあるかをいかに言語化したうえで認識するだろうか。言葉になり切らないなら、描像だろうか。描かれるのみで、言葉では表現できない運動の姿があるのではないか。それはそのように動いていることに真実がある。そのようでしかない。そのようでしかないすべての運動がそれでも言語などのロゴスによって把握されるのは、その運動が構造を持つからだ。言葉は構造を持つものしか把握できない。私たちの認識は構造的なものだ。構造を持たないカオスは、その振る舞いが私たちの認識を超えて実在している。そうである可能性は否定できない。その定まった軌道を持つことのない運動が確かにあるのかもしれない。