その536

 何かが何かであるといったことはない。何かとはつねにいかにあるかである。つねにいかにあるかである何かは、何かでありつつも、その状態が他の何かによってでき上がっている。何かとはその状態のことであるが、その状態がいかにできあがっているかを考えたとき、その外部の要因は確かにあるが、そのものそれ自体もまた、何かがいかにあるかの要因である。何かがいかにあるかについて、そのいかなるかは、まったく同時に、それ自体とそれ自体以外のその要因になっている。全く同時にそのようであるとき、何かがそのようにあることとは、それ自体であり、それ自体以外であるわけだが、そもそもにおいて、何かがいかにあるかの要因は、それ自体が先なのか、それともそれ自体の外部が先なのか。何かがあるためには、その何か以外の要因があってこそなのかもしれない。まず先に何かが実在するためには、その何かが存在する以前にそのための外部環境が必要とされる。外部環境に依存したうえで何かがある。外部環境が整ったから、何かがあるのであり、何かがあり、そのために外部環境が用意されるというのではない。水が水であるためには、凍らない環境がまず必要となる。凍らない環境がまずあることで水が実在するうえに、水が実際に実在するためにも、凍ってしまう環境だった状況から凍ることのない環境に至ることで初めて水が発生する。初めから水があるのではない。水ではないものが水となるために最低限必要な環境がある。生命もまた、その出現のために初めて用意された環境があった。それまでなかった。なかったものがあるようになるためには、そのための環境がまず必要となる。それがいかなるものであったか、詳しく知らないが、少なくとも、生命なる現象の発生のための環境が偶然か否か定かではないが、いつしか発生したのだ。何につけ、それがあるためには、それがあること以前にそのための要因となる環境がまず先にある。