その519

 数式それ自体が捉えた運動は、ある構造的な運動ではないか。構造的な運動しか捉えることができないのではないか。認識の限界を示すことができても、それ以上、何が認識できないかを示すことはできない。

 構造を持たない何かを認識できるだろうか。構造を持つことなく実在することがある。いや、それはあり得る。認識できない姿で実在する事物がいかにあるか、それは認識できない。つねに可能性としてある。可能性としての現実はあったとしても、それが可能性である限り、現実か否かは定かではない。つまり、現実にはつねに確かな現実とともに、不確かな現実がある。現実がつねにあいまいさを抱え込んでいるとき、一個の確かな現実をまえに生きているのではない。確かさとともにある不確かさがそれでも確かかもしれないといった、掴み尽くそうにも掴み尽くせない現実とともに生きている。本来において、すべての現実は確かである。それは認識外においてそうである。しかし、認識の運動が認識主体より発生したとき、そこには必然的に不確かさが生じる。認識しようとするから不確かさが発生するのである。認識主体が実在しない世界には可能性はない。起こることが純粋に起こっていく。この意味で、認識はつねに不純である。不純な認識がこの世界にある。実在する認識不純性の向こうに純粋な世界がある。不純な認識を通じて純粋な世界を見ている。むろん、純粋な世界は見えない。常々、世界は不純に見えている。