その544

 動きそれ自体はつねに複数ではないか。複数あるから動く。むろんそれは認識内において複数なのであって、認識を取っ払えば、複数も単数もない。あるがままある。あるがままあるものが単数のはずはない。かといって、複数というのでもない。複数は単数をもとにある。単数があるから複数があるが、単数があることが否定されれば、複数もまた否定される。単数も複数も否定されたとき、そこにあるのは分別の不明さだ。分け隔てることで単数が生じ、複数が生じる。分け隔てることがなければ、単数も複数もない。そもそもにおいては単数も複数もない。認識の行為が単数を生む。複数を生む。認識対象は、それ自体が揺らいでいて、認識外との関係にある。それ自体はそれ自体以外であり、それ自体である。何かがいかにあるか、それはいかにあるかを超えている。つまりは、存在がいかにあるか。問うべきはそこだ。いかにあるかといった問いは即座に何かを限定しようとする。いかにあるかは、そのようにあることである。そのようにあることが意味することは、その単一さである。複数性である。認識内で切断された何かが実質的にそのようにあるわけではない。さしあたって、そのようにある。しかし、そのようにある何かはそれ以上の何かとなる。